ラフカディオ・ハーン著、池田雅之 翻訳
「知られぬ日本の面影」(「盆踊り」の章)より
著者であるラフカディオ・ハーンは、1850年にギリシャで生まれ、1890年(明治23年)アメリカから通信記者として来日しました。その後、英語教師として山陰の松江に赴任しますが、この記録は赴任する途中、伯耆(ほうき:今の鳥取県中西部)での体験を記したものです。
ハーンは、1890年(明治23年)の八月二十八日に、鳥取県西伯郡逢坂村の上市に投宿したおり、宿屋の関係者に案内されて、妙元寺の境内で行われた盆踊りを見学しています。
<<引用、ここから>> 一部省略しています。
「かつてのお寺であった本堂の陰から、踊り子たちが列をなして月の光を浴びながら出てきて、ぴたりと立ち止まった。みんな若い女や娘たちばかりで、 晴れ着の着物を着込んでいる。
いちばん背の高い女が先頭に立ち、その後に背の順に全員が並んでいく。十歳くらいの少女が、しんがりを務めている。その鳥のような軽やかな身のこなしは、かれた夢のような人々の姿を、どこか思い出させるものであった。
膝のまわりにぴったりとまとわりついた、素晴らしい日本の着物は、妙に垂れ下がっている大きな袖や、着物をきゅっと縛っている幅の広い帯がなかったら、おそらくギリシャかエトルリアの絵でも模倣したのではないのか、と思えてくるほどである。
すると、太鼓がもうひとつ、ドンとなったのを合図に、さあ、いよいよ盆踊りの始まりである。それは、筆舌に尽くしがたい、想像を絶した、何か夢幻の世界にいるような踊りであったーーーまさに、驚嘆の舞いといってよかった。
踊り子たちは、みんなが一斉に、右足を一歩前に、草履を地面から上げることなく、地面の上を滑るようにして差し出す。と同時に、まるで手を宙に浮かせるかのように、ふわっと両手を右側へ伸ばし、微笑みながらお辞儀をするように頭を下げる。それからまた同じ手の振りと、不思議なお辞儀を繰り返しながら、出した右足を後ろへ下げる。
そして今度は、全員が左足を前に出し、左側に半身を翻しながら、先ほどと同じ動きを繰り返す。それからまた一斉に、二歩前に足を擦り出し、同時に一度やさしく手を打つ。こうして、また最初の動きに戻り、右と左とに交互に反復されるのである。
全員の草履履きの足が同時に動くと、それに合わせてしなやかな手も一緒に振られ、柔軟な体が同時に前や横へと揺れる。そして、不思議なことに、はじめの踊り子たちの列は、月光の降り注ぐ境内の中を、ゆっくりゆっくりと、大きな輪となって広がってゆき、黙って見ている見物人を取り囲んで行く。
こうして、いつも無数の白い手が、何か呪文でも紡ぎ出しているかのように、手のひらを上へ下へと向けながら、輪の外側と内側に交互にしなやかに波打っているのである。それに合わせて、妖精の羽のような袖が、同時にほのかに空中に浮き上がり、本物の翼のような影を落としている。
足も全て一緒に、繰り返し繰り返し動くので、それらの動きを眺めていると、キラキラ光る水の流れをじっと見ているような、まるで催眠術にでもかかったような感じがしてくる。
無言で踊る中、シュッシュッと擦れる音だけが聞こえてくる。この踊りの動きは東洋の歴史が記録に残される以前からのもの、もしかしたら神代の時代から存在したものを目にしているのではないだろうかという思いが頭をよぎった。踊り子の静かな微笑み、その静かなお辞儀は、まるで目に見えない見物人に向けられているかのように感じる。
何か夢を見ているような感じの中、美しく透き通った少女たちの歌声が聞こえて来た、それに呼応するように五十人もの歌声がやさしく唱和していく。「揃うた 揃いました 踊り子がそろた 揃い着てきた 晴れ浴衣」
あの白い提灯がぶら下がっている、灰色の墓石の下で、何世紀もひたすら眠り続けている人たちも、その親たちも、そのまた親の親たちも、さらには千年もの間に、埋葬されたお墓の場所さえ忘れられてしまった、さらに昔の知らない世代の人たちも、きっとこの光景をみてきたに違いない。
いや、踊り子たちが巻き上げるあの土埃こそ、かつてこの世に生きていた人々の生命だったのである。今宵と寸分違わぬ月明かりの下で綾なす足どり、揺らめく手ぶりそのままに、にこやかに笑みを浮かべてきっと同じように歌を口ずさんだ人たちだったのである。
<<引用、ここまで>>
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