昭和27年(1952年)にNHKラジオ歌謡として発表された『山のけむり』は、八洲秀章作曲による名曲のひとつです。ゆったりとした旋律には心を癒す力があり、今も多くの人の心をつかんでいます。
名曲には、歌詞やその楽曲主部だけでなく、前奏や間奏も印象的なものが少なくありません。この『山のけむり』の前奏もまた、聴く人を静寂な山の世界へと一気に引き込む、秀逸な導入部となっています。
この歌詞は、ストーリー性を帯びていることに加え、時間軸が重層的に重なり合っているところが秀逸で、本当に素晴らしいです。以下、自分なりの解釈を少し述べてみたいと思います。
まず1番では、「山の煙の~あの道よ」と始まり、山の情景が描かれたあと、「幾年消えて~遠くしずかにゆれている」と続きます。ここでは、描かれている山の記憶が昨日今日のものではなく、数十年という歳月を経た“遠い過去”であることが、しみじみと感じられます。
「たゆとう森の」という表現も印象的です。「たゆとう」は、“ゆらゆらと漂う”という意味を持ちます。森の情景が時間とともにぼんやりと、記憶の奥に浮かび上がってくるさまが、この言葉で巧みに表現されています。
2番では、偶然山道で出会った人と、清水を汲み合い、共に下山する情景が淡々と描かれます。そして最後に「下りた峠のはろけさよ」という一節があり、ここにも時間の隔たりがさりげなく込められています。「はろけさ」は「遙けし(はるけし)」、つまり“遠い”という意味。つまりこの出会いも、はるかな昔の出来事だったことがほのめかされているのです。
3番では、「染めた茜(あかね)のなつかしく」と締めくくられ、やはり過去の思い出が懐かしさとともに蘇ってくる情景が描かれています。
こうしてみると、「たゆとう」「はろけさ」「なつかしく」といった言葉が、歌詞の随所に巧みに配置され、山での思い出が単なる風景描写にとどまらず、長い歳月を越えて回想されていることが、静かに伝わってきます。
さて、この歌で描かれる“二人(ふたり)”は、その後どうなったのでしょうか。とても気になるところですが、おそらくは二度と会うことはなかったのでしょう。だからこそ、このように懐かしく思い出されるのだと思います。
再び会えていたなら、こんな風に心に深く残ることはなかったかもしれません。この歌詞で描かれているような情景は、永遠に戻ってこないことが分かっているからこそ、より一層心に響くのでしょう。
作詞者の大倉芳郎は、この歌は「特定の山をイメージして書いたものではない」と語っていますが、作詞当時に念頭に置いていたモデルは、「浅間山」だったとされています。長野県の千曲川沿い、小諸大橋記念公園には、この歌の歌碑も建立されています。
この歌が生まれたのは、山登りが、若者たちの間で大流行する先駆けの時代です。私自身も若い頃から登山を趣味のひとつとしてきましたが、今では登山者の多くが年配者です。特に近年は、誰でも気軽に参加できる趣味の会を介した、里山ハイキングや低山登山の人気が高まっています。
こうした会では、経験豊富なリーダーがついてくれるため比較的安心ですが、個人や初心者同士で安易に出かけてしまうと、遭難などの危険を伴うこともあります。実は、低山だからこそリスクが高い場面も多々あります。たとえば、軽装でスニーカーのまま登り、下山時の急な下り坂に、足の指先が耐えられず下山途中で歩けなくなる…といった事例もよく耳にします。
また、地図やコンパス、或いはポンチョといった必須の道具を持たないまま出かけてしまう人も少なくなく、現地に行って迷うことも多いようです。(最近は、スマホ用のコンパスアプリがあります)実際、低山では、ルートの入り口自体を見つけるのが難しい場合が珍しくなく、最初の段階で正規のルートとは異なる道から入って、途中で道を見失ってしまうというケースがよくあります。
また、正規のルートを通っていたとしても、途中の標識が長年の風雨で読めない状態になっている場合も多々あり、そのため、分岐点で誤ったルートを選択してしまって遭難するというケースもあります。
そして何よりも、自分の今の体力を過信して、登り始めてから初めて、思っていた以上に体力がいることに気づき、慌てることのないようにする必要があります。
ロマンティックな『山のけむり』の歌の世界から、現実的な登山の話へと、大きく逸れてしまいました。
しかし、この歌詞のような「山」ではなく普通の旅であっても、この歌が描く光景に似た旅情、偶然の出会い、別離を経験し、ふとした時にその時の情景を、懐かしく想い出される方は、多いのではないでしょうか。
静かな抒情、束の間の出会いと別れ、そしてもう戻ることのない時間・・をしみじみと感じさせるこの歌は、人生の「下り坂」を歩み始めた今こそ、より深く心に染み入ってくるように思えるのです。
<<参考音源>>
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