【夕暮れの田舎道を走るバスの車掌の襟ぼくろに、別れた恋人の面影を見い出す】、また【恋人の故郷(ふるさと)を探して海辺の町をさまよう】。
昭和38年に生まれた2つの歌謡曲は、どちらも「忘れえぬ面影を探し求める旅人」を描き、当時の日本人の心に深い哀愁を刻みました。
本稿では、石原裕次郎・浅丘ルリ子のデュエット曲『夕陽の丘』と、西田佐知子が歌った『エリカの花散るとき』を取り上げ、その旅情をたどってみたいと思います。
『夕陽の丘』は石原裕次郎と浅丘ルリ子とのデュエット曲で、数ある裕次郎の歌の中でも、『赤いハンカチ』と並び、代表曲ともなった歌です。
同名の日活アクション映画の主題曲で、この映画そのものは、それほど印象に残るものではなかったのですが、この主題歌は歌詞・メロディ共にしみじみした哀愁を感じさせ、何時までも心に残る名曲となりました。
また『夕陽の丘』というタイトルも、この歌のしみじみした味わいを深めることに、寄与しているような気がします。
この歌詞には、北国の小さな田舎町を走る乗り合いバスの、女の車掌さん(バスガール)が出てきます。今の子供達はバスの車掌と聞いても、どういう事をしていたのかも分からない子が多いのではないでしょうか。
がま口を大きくしたような車掌バッグを首からぶら下げ、その中に綴りの切符や、その切符を切るパンチを入れていました。
実際の仕事は結構大変でした。切符切り、乗客から料金を受け取って切符を渡す、折りたたみ扉の開閉、バスの清掃、バス停の案内などに加え、狭く未だ舗装されていない土ぼこりの立つ道で、バスの誘導(バックオーライ)をするのも、車掌さんの仕事でした。
この当時、地方の乗り合いバスで働く「女の車掌さん(バスガール)」は、庶民の生活に根ざし、ときには常連客との恋が芽生えることもあったといいます。歌の主人公は都会から来た旅人、たまたま乗り合わせたバスの車掌に、かっての恋人の面影を見出しています。
哀愁に満ちたこのメロディを聴いていると、自分もそのバスの乗客になっているような気がしてきます。そして田舎道をバスに揺られながら、沈みゆく真っ赤な夕陽に向かってどこまでも走り続けている、そんな映像が目に浮かんできます。
ご紹介したいもう1曲は、西田佐知子が歌った『エリカの花散るとき』という歌です。『夕陽の丘』の旅人には目指すべき明確な場所があったわけではなく、ただ漠然と北国の町々を、乗り合いバスで旅している印象でした。
一方、この『エリカの花散るとき』の主人公には、別れた恋人の故郷という、探し求める具体的な場所がありました。但し、その場所の手がかりは「伊豆半島のどこか」「青い海が見える場所」「エリカの花が咲く」、というわずかな情報だけだったようです。
それでは、その場所はいったい何処だったのでしょう。歌詞の描写から具体的にどの辺りか絞り込むことは難しい部分もありますが、私なりに史実や地理的背景を踏まえて推測してみたいと思います。
伊豆半島は、昭和30~40年代にかけて観光ブームの中心地でした。特に伊東市の城ヶ崎海岸は「海が見える断崖+花の名所」で、当時の観光ポスターにも花と海がよく描かれました。こうした昭和40年代前後の観光イメージを踏まえると、「東伊豆の海岸(伊東~城ヶ崎~下田)」が最も近い舞台と考えるのが自然です。
特に城ヶ崎海岸は、「断崖に咲く花」「青い海を背景にした旅情」が歌詞の雰囲気と重なります。また、下田市は温暖な気候で、冬から早春にかけてエリカの一種であるジャノメエリカが咲くことでも知られています。
下田の海岸線から青い海を背景に咲くエリカの花は、まさに歌詞の情景と重なります。
こうした事から、この歌詞の舞台は伊豆半島の東海岸、特に城ヶ崎海岸から下田にかけての一帯をイメージしている可能性が高いと推測できます。
実際、下田市には、須崎半島という場所があり、その先端にある「恵比須島(えびすじま)」には、「エリカの咲く岬」という歌の石碑が建てられているようです。
現在のようにスマホはもちろん、メール、LINE、SNS といった通信手段が無かった時代に、一度手がかり無く別れてしまった恋人に再び巡り合うのは、不可能に近いぐらい難しいことでした。
今の時代だと、ストーカー行為と見做されかねませんが、当時はこの歌詞のように、相手の生まれ故郷を訪ね歩き、万に一つの偶然の出会いに期待した人が、実際におられたかもしれません。
この曲の主題になっている「エリカの花」は、日本では馴染みが薄いため、ほとんどの人は、どんな花なのかは想像するしかなかったと思います。また、この歌詞では、探し求めている場所も、伊豆半島という以外は漠然としています。
しかし、逆に具体性を持たない分だけ、聴く人がイメージを膨らませ、それぞれの心の中で、鮮やかな旅情を描かせる効果があったかもしれません。
『夕陽の丘』と『エリカの花散るとき』、同じ昭和38年にリリースされた、この2曲に共通しているのは、その旅の途中で感じられる哀愁や孤独、そして深い旅情です。
どちらの曲の主人公も失意の中にあり、それを克服する手段として一人旅に出ています。そして一人彷徨う中で、言い知れぬ旅愁を感じている様子が描かれ、それが聴く人の心にも深く響いてきます。
私は、深い哀愁を感じさせる、このような歌をむしょうに聞きたくなる時があります。現代の歌のように華やかさはなく、高度のリズム感やドラマッチック性もありません。このため、今の人達には、時代遅れで野暮な歌のように感じられることでしょう。
しかし、こうした曲には、わたし達日本人の心の奥を揺り動かす「歌心」が息づいているように思えてなりません。
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