夏目漱石『坑夫』 白昼夢的な症状を描写している場面


 以下に掲載しているのは、夏目漱石の小説『坑夫』の中の一場面です。

恋愛事件のために家を出奔した主人公の青年が、周旋屋に誘われるまま坑夫になる決心をし、銅山に辿り着くまでの道中での出来事です。

 この場面自体は、小説のストーリーとはほとんど関係のない内容なのですが、白昼夢的な様子を見事に描写しています。


<<引用、ここから>>

 前に云った通り自分の魂は二日酔の体たらくで、どこまでもとろんとしていた。ところへ停車場を出るや否や断りなしにこの明瞭な――盲目にさえ明瞭なこの景色にばったりぶつかったのである。


 魂の方では驚かなくっちゃならない。また実際驚いた。驚いたには違いないが、今まであやふやに不精不精に徘徊していた惰性を一変して屹(きっ)となるには、多少の時間がかかる。


 自分の前(さき)に云った一種妙な心持ちと云うのは、魂が寝返りを打たないさき、景色がいかにも明瞭であるなと心づいたあと、――その際(きわ)どい中間(ちゅうかん)に起った心持ちである。この景色はかように暢達(のびのび)して、かように明白で、今までの自分の情緒(じょうしょ)とは、まるで似つかない、景気のいいものであったが、自身の魂がおやと思って、本気にこの外界(げかい)に対(むか)い出したが最後、いくら明かでも、いくら暢(のん)びりしていても、全く実世界の事実となってしまう。


 実世界の事実となるといかな御光(ごこう)でもありがた味が薄くなる。仕合せな事に、自分は自分の魂が、ある特殊の状態にいたため――明かな外界を明かなりと感受するほどの能力は持ちながら、これは実感であると自覚するほど作用が鋭くなかったため――この真直な道、この真直な軒を、事実に等しい明かな夢と見たのである。


 この世でなければ見る事の出来ない明瞭な程度と、これに伴う爽涼(はっきり)した快感をもって、他界の幻影(まぼろし)に接したと同様の心持になったのである。自分は大きな往来の真中に立っている。その往来はあくまでも長くって、あくまでも一本筋に通っている。歩いて行けばその外(はずれ)まで行かれる。


 たしかにこの宿(しゅく)を通り抜ける事はできる。左右の家は触(さわ)れば触る事が出来る。二階へ上(のぼ)れば上る事が出来る。できると云う事はちゃんと心得ていながらも、できると云う観念を全く遺失して、単に切実なる感能の印象だけを眸(ひとみ)のなかに受けながら立っていた。

<<引用、ここまで>>


<<引用文献>>  新潮文庫『坑夫』 夏目漱石 著


0 件のコメント: