2025-09-11

マロニエの木陰 (戦前に生まれたモダンな和製タンゴ)

 マロニエの木陰(リンク)

 昭和初期に誕生した歌『マロニエの木陰』。このタイトルには、ヨーロッパの街並みを思わせる響きがありますが、実はコンチネンタル・タンゴの傑作とされる和製の曲です。


 戦時体制に入る直前に生まれながら、今もモダンで洗練された雰囲気を放つこの一曲を、ここでは音楽の魅力や「脇役の存在」という切り口から、振り返ってみたいと思います。


 

 私がかつて暮らしていた家の隣地には、大きな栃の木が聳えていました。存在感のあるその姿はいまも心に残っています。この木もそうですが、日本でよく見かける「在来の栃の木」は、マロニエと呼ばれる、ヨーロッパ原産の「西洋トチノキ」とは異なる種類の木です。

 

 交配種はともかく、純粋なマロニエは、実際には日本ではあまり植えられていないようです。


 一方で、世界的に有名な「マロニエの並木道」といえば、パリのコンコルド広場から凱旋門に続く「シャンゼリゼ大通り」です。映画やシャンソンの舞台となった景観は、日本人にとっては、異国情緒を象徴する憧れの存在でもあります。


 『マロニエの木陰』は、シャンソンぽい雰囲気もしますが、昭和12年(1937)にリリースされた、和製のコンチネンタルタンゴ曲です。


 戦前、それも軍歌一色の時代に入る直前の作品でありながら、驚くほどモダンで垢抜けた雰囲気を持っています。タンゴのリズムが軽快で心地よく、今聴いても瑞々しい印象を受けます。


 リンク先の演奏では、主旋律を管楽器、伴奏をピアノが担っています。特にピアノの響きが明瞭で、伴奏でありながら楽曲全体を引き締める大きな役割を果たしています。まさに“縁の下の力持ち”といえる存在感です。


 本来は主役になることの多いピアノですが、この曲では脇役としての存在感を見事に発揮しています。このように、求められる場面によって、主役・脇役のどちらでも自在にこなせるというのが、ピアノの凄いところなのかもしれません。


 音楽での主演奏と伴奏に限らず、主役と脇役という組み合わせは世の中の至る所で見られます。音楽での伴奏、芝居で言う脇役は、主役の引き立て役として見られ、目立ちませんが、それが無いと全体が成り立たない貴重な存在です。



 この点で思い出されるのが、山本周五郎の時代小説『さぶ』です。この作品では、江戸下町の表具店で働く、対照的な二人の青年の人物像が鮮明に描かれています。


 主人公は「英二」で、作中ではほとんどがこの栄二の立場、視点で描かれています。英二は世渡り上手、異性にモテ、頭が切れる、いわゆる優等生タイプの人物です。一方、「さぶ」は自分に自信がなく、優柔不断で、人にあなどられる、言い換えれば劣等生タイプの人物として描かれています。


 優等生タイプの「英二」が主役であり、一見劣等生タイプの「さぶ」は脇役に見えます。しかし、物語が進むにつれて、真に人を支え、周囲を照らすのは「さぶ」であることが浮かび上がってきます。


 今も身近な職場などでありそうな人間模様や、人の心の機微を描いた小説なのですが、題名が主役ではなく登場機会も少ない、脇役の『さぶ』になっていることから、この作品での作者の意図が見えてきます。


 世の中で「主役」になりがちな人が、本当にすべてを見通していて「優れている」のではなく、「さぶ」のような陰で支える存在があってこそ、世の中は成り立っているのではないか。そんな作者の「問いかけ」が、この作品には込められているような気がしました。



 主題の歌の話に戻しますが、『マロニエの木陰』を作曲したのは、福岡県出身の細川潤一という方です。久留米から上京し、独学でギターと作曲を学んだ人物です。


 驚いたことに、この曲以外の作品はほとんどが演歌で、三橋美智也の『古城』や『おさげと花と地蔵さんと』といった作品が知られています。


 本来であれば、この曲のヒットを機に同系統の作品が生まれてもよさそうですが、同じような雰囲気の他の歌は見当たりません。おそらく時代背景が大きく影響していたのでしょう。


 軍歌一色へと傾いていく時代の直前に生まれながら、今も心弾むモダンな響きを失わない『マロニエの木陰』。それは、時代が許したわずかな隙間から生まれた、小さな奇跡のような一曲だったのかもしれません。



<<参考資料>>

・文春文庫『さぶ』山本周五郎 著


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