最近、東欧クロアチアで行われた国際映画祭のオープニングを飾ったのは、塙保己一のドキュメンタリー映画でした。クロアチアではその映画が国営テレビでも放映され、保己一(ほきいち)の生涯を知る事により多くの人が感銘を受けたようです。
また、三重苦の障害のあったヘレンケラーは、幼い頃に母親から『日本の塙保己一先生を目標に生きていきなさい』と言われて育ったという話があり、昭和23年8月に来日した際に、保己一の墓を訪れています。なお、ヘレンケラーの母親に塙保己一のことを教えたのは、電話の発明で有名なアレクサンダー・グラハム・ベルだったようです。
記録として残された確証のある話ではありませんが、グラハム・ベルが塙保己一のことを知っていたのは、文献などからではなく、当時日本からアメリカに留学していた留学生 井沢修二(いざわしゅうじ)から塙保己一の話を聞いていた可能性があります。
これ程、国際的にも知られている偉人でありながら、現在の日本国内ではその偉業の詳細を知る人は少なくなっています。私は、保己一が編纂した『群書類従』というものが、具体的にどのようなものなのか。また保己一は全盲でありながら、どうしてこのように高度な知的作業が可能だったのかについて、にわかに興味が沸き少し調べてみました。
保己一は、延享3年(1746年)に今の埼玉県本庄市で生まれていますが、武家の出というわけではなく百姓の家系でした。7歳の時に今で云う緑内障で失明していますが、目が見えなくなってからは、寺の和尚や家族から一度聞いた話を忘れることはなく、一言一句違わずに語ることができたと伝わっています。
紆余曲折の後、15歳になって江戸の雨富須賀一検校に入門していますが、その当時のエピソードとして、次のような話が記録されています。
『保己一は書を見ることができないので、人が音読したものを暗記して学問を進めた。雨富家の隣に住んでいた旗本の高井大隅守実員の奥方が、保己一の学問の姿勢に感動し、『栄花物語』40巻を保己一に与え、初めて書物を所有した。』
当時の書物は非常に高価なものでしたから、それを40巻全盲の保己一に与えたということは、周りから見ても感動するほどの、驚異的な学習能力を示していたのでしょう。
ウィキペディア(Wikipedia)によると、【『群書類従』(ぐんしょるいじゅう)とは、塙保己一が編纂した国学・国史を主とする一大叢書(そうしょ)であり、保己一が古書の散逸を危惧し、1779年(安永8年)、菅原道真を祀る北野天満宮に刊行を誓い、江戸幕府や諸大名・寺社・公家などの協力を得て、収集・編纂した。】となっています。
正編1270種530巻666冊,続編2103種1150巻1185冊からなる日本最大の叢書(そうしょ)で、正編は,1779年(安永8)から1819年(文政2)に全冊の刊行を終えるまで,実に41年の歳月を費やしています。
続編の企画・編集も保己一の手になりますが,1821年に業なかばにして没したため,子の忠宝(ただとみ)が遺志を継ぎ,目録の完成後,その校訂・浄書などに取り組み,出版計画を進めていました。
しかし忠宝の暗殺という不慮の事態も重なり,孫の忠韶(ただつぐ)の代である1911年(明治44)に至って,ようやく全巻の刊行をみた。となっています。
それはそうと、私は最初、基本の基(キ)である、この「編纂(へんさん)」という言葉の意味自体がよく分からなかったのですが、編纂とは「多くの材料になる書物類を集め、またはそれに手を加えて、書物の内容をまとめること、編集」となっています。
つまり、『群書類従』というのは、一連の書物ではありますが、その中身は全くのゼロから生み出した新たな書籍ではありません。
基になる膨大な古書類が既にあり、各地に散らばっているそれらの古書を集め、分類して目録を作成し、一定の形式に整え、それを校訂して浄書(清書)し、順次発行(桜の版木に彫刻して出版)していったシリーズ物の書物のことで、その編纂対象となったのは主に国学・国史に関わる古書類です。
一言で云うと、【古代から江戸時代までの日本の歴史書・文学・法令・日記・記録などを、可能な限り集めて分類・整理し、写本としてまとめたもの。】となります。
『群書類従』のおおよそのイメージはつかめましたが、具体的な中身については、種々の解説類を読むより、実際にその本を手に取って直に見た方が早いと思い、在住している市の中央図書館へ出向いて確かめてみることにしました。
図書館で実物を確認すると、今の活字印刷物では約130巻(130冊)有り、正編・続編・続々編に分かれています。何れも貸し出し不可で館内でのみ閲覧可能となっていました。
その中味を見てみると、第1巻の始めは神祇部といって、神話を中心とした漢字だけで書かれた物語のページが延々と続き、見ていると眩暈(めまい)がするような気がします。この辺りは、とても素人が読めるような代物ではないのですが、巻が進むにつれ聞いたことのある、ひらがな書きの書き物が出てきます。
原書が書かれた年代順に編纂されているわけではなく、書かれている内容の分野別に分類整理されているようです。例えば、~17.管弦部、18.蹴鞠部、19.鷹部、20.遊戯部、21.飲食部、22.合戦部、・・・・となっていて、分類の15.日記部や16.紀行部では、かげろう日記、紫式部日記、更科日記、或いは土佐日記。・・・などと言った有名な古書がたくさん載っていました。
こうした有名な書物というのは、今では単独で出版されていて、『群書類従』を見るまでもないのですが、中にはほんの数頁ほどの書き物が多数あります。こうした、ほぼ無名の古人が書き残した、ちょっとした書き物は、確かに『群書類従』で編纂整理して残されていなければ、散在してとっくに消滅してしまい、我々のような後世の人達が目にすることは無かっただろう、という事を実感しました。
また意外だったのは、今で云うイラスト的な絵が多数書かれているものが結構あったことです。『群書類従』と聞くと、遠い過去の、自分には全く縁の無い書物のように思っていましたが、実際にその中身を見てみると意外に親近感がわき、その一部は一般の我々でも十分に親しめ、利用価値がある書物である事を認識しました。
ところで、保己一が天才的な記憶能力を有していたというのは分かっていますが、それにしても、全盲(7歳で失明)の身で、基になるこれだけ膨大な書物類すべてに目を通し(恐らくは、耳から聞いて)それらを記憶し且つ絶対に忘れず、分類、校訂するというようなことが、どうして可能だったのかについて、私の中では疑問でした。
彼の頭の中には、日本文化の体系そのものが形づくられていて、その驚異的な記憶力と構成力は、現代のAIが持つ“知識の統合”にも似たところがあったのでしょう。
しかし、書物の編纂を行うには、当然ながら、それら対象となる書き物の中身を全て知っていなければなりません。それぞれの文書の、中味の文章全てを記憶しておく必要はないでしょうが、盲目の方だと何度も手に取って見返すという作業もままならないはずです。
肝心のその点、つまり塙保己一が『群書類従』という膨大な(版木枚数は17,244枚で、両面に彫られているため約34,000頁になります)書物の編纂を行った一連の知的作業で、具体的にどのような手段、方法を用いていたのかという点については、未だ詳しくは解明されていないようです。
『群書類従』というのは、今でいうと知識データベースのようなものです。コンピュータも何もない今から200年以上前の時代に、全盲の人がそれをゼロベースから構築するという、一見不可能に思えることを可能にしたのには、保己一が驚異的な天才的記憶力の持ち主だった、ということ以外に、何か具体的ノウハウ的なものがあったはずで、保己一の盲目という条件を勘案すると、以下のようなワークフローが想定されます。
1. 保己一が収集対象書物や写本を確認(聴読・口述を受ける)/重要文献リストを作成
2. 弟子・協力者が原本・写本を借りてきて、写し・書写・異本比較を実施
3. 保己一がそれらを聴き・検討し、分類方針・訂補方針を決定
4. 清書・下版(版下起こし)・版刻・印刷・製本を弟子・協力者・和学講談所および版元・出版支援者が行う
5. 出版・配本・販売(或いは配付)・保管を整備
<注>余談になりますが、保己一は版木を製作させる際、なるべく20字×20行の400字詰に統一させていて、これが現在の原稿用紙の一般様式の元になっています。
こうした工程において、盲目であった保己一でも「記憶力・口述聴取・分類・編集方針決定」という形で中核的に関与できたという構図が浮かびます。また、「校正・浄書・下版・版刻」に関しては文字視認が必須なので、視力を持つ弟子・スタッフの協力が不可欠だったと思われます。
つまり、保己一は企画・分類・目録・校訂方針など“上流工程”を統括し、下流工程は弟子たちが中心になって実行していったのでしょう。
しかし、よく考えてみると、『群書類従』編纂に際して、塙保己一自身が偉かったのはもちろんですが、全盲の保己一をこうした国家プロジェクトのリーダーとして任命し、全面的に支援したのは素晴らしい英断でした。
古い習慣や考えに固執し頑迷と思われがちな、当時の江戸幕府官僚たちの中には、広く物事を見通し、優れた見識を持った素晴らしい人物が居たのだと、改めて考えさせられました。
ここで話は少し変わりますが、保己一の子 “塙忠宝(はなわただとみ)”は、保己一の意志を継ぎ、群書類従「続編」の出版計画を進めていましたが、”廃帝の先例を調査している“との風説により、当時の勤王志士により暗殺され、志半ばにして亡くなっています。
文久2年(1862年)12月21日夜に九段坂付近で襲撃されていますが、襲撃したのは萩藩士で、その主犯とされるのが、明治の元勲 “伊藤博文”と明治になって日本の工業の父と呼ばれるようになった “山尾庸三”だったそうですから驚きです。
木下知威氏のウェブ記事には、次のような記述があります。
(<注>下記記事は、非学術サイトです)
【第四章 勤王攘夷(下)より引用】
曩(さき)に安藤信正を坂下門外に要撃せし激徒の斬奸状に、廃帝の故事を取調べたる一箇条ありしが、その取調の任に当りし者は、国学者塙次郎(忠宝)なることが判明した。
ここに於いて、公(伊藤)は、先づ山尾庸三と共に国学入門と称し、塙を麹町三番町の住宅に訪ね、その面貌を見定め置き、文久二年十二月二十一日の夜、塙が他所よりの帰宅を待受け、その住宅附近に於いて国賊と呼びかけ、これを斬殺した。
(『伊藤博文傳』上巻、73頁、昭和15年、旧字をあらため、括弧は補足したもの)
この「伊藤博文・山尾庸三が主犯」という話については、渋沢栄一が大正10年に、このことを明らかにしており、田中光顕が伊藤本人から聞いた暗殺時の話も記録されています。
しかし、上述の記事もそうですが、学術的に明確な一次資料で確定されたものではなく、「伝承・風説」の範疇とされ、史実として広く確定・定着しているとは言い難い状況です。
史実としての証拠が十分に確定していないため、「幕末史の中で定説化」されていないのが現状ですが、そこには伊藤が初代総理大臣になるなど、二人が明治期に重要な社会的位置を占めていたという事情があったからかもしれません。
歴史叙述・記憶として「勝者側(明治政府・維新勢力)」の側面が強調されがちなため、彼らに不利となるような「暗殺関与」等の話は後世の編集・整理の中で控えられたのでしょう。それにしても、昭和期の千円紙幣に描かれるほどの人物が主犯だった可能性がある暗殺事件。それが今の人達には、ほとんど知られていないのも不思議です。
同じように、塙保己一の業績や彼が主導して出来上がった『群書類従』が、今の日本では一部の研究者の方たちを除いて、ほとんど語られることも無く、忘れ去られているのは非常に残念な気がしています。
『群書類従』は、明治以降も研究者たちによって再編集・活字化され、現在ではデジタルアーカイブとしても閲覧可能です。もし塙保己一の努力がなければ、今日私たちが手にする多くの古文書や記録は、失われていたかもしれません。
「見えないこと」は、決して「知らないこと」ではない。塙保己一の生涯は、視力を失っても知の光を灯し続けた人間の力を、今も私たちに語りかけています。
<<参考文献>>
・「群書類従の編纂と版木の変遷」(公益社団法人 温故学会 Webサイト)
・『続群書類従』編纂に関する論文(名古屋大)
0 件のコメント:
コメントを投稿