この『紅(あか)とんぼ』という曲は、ひとつの時代の幕が静かに下りる、その瞬間を見事に切り取っています。1988年(昭和63年)に発売された、“ちあきなおみ”のシングルですが、新宿駅裏の『紅とんぼ』という居酒屋を営んでいた女性が、店を畳んで故郷へ帰る最後の夜を描いた名曲です。
リンク先での二木楽団によるインストゥルメンタル演奏は、使われている楽器の選択が素晴らしく、特に間奏やエンディング部分で使用されている、乾ききった感じの楽器の音色が、その女性の胸の内をつつましくも鮮明に表現しているように感じられ、強い印象を残します。
この曲を歌った“ちあきなおみ”は、歌のうまさでは定評のある歌手です。細部にわたる歌の表現力や圧倒的な声量で、歌手として際立った力量を示していました。“ちあき”の歌いぶりは、歌詞の行間を読むというか、言葉の「間」や「息遣い」にまで感情を宿らせ、他の歌い手では決して出せない味を見事に表現していて、聴く人の心を揺さぶります。
演歌歌手のように思われていますが、実際にはシャンソンやジャズなど洋楽のカバー・アルバムもリリースしています。また早くからポルトガルの民族歌謡ファドに関心を示すなど、非常に幅広いジャンルの歌で、その才能を発揮していました。幼少期から芸事に親しみ、米軍キャンプでジャズを歌った経験もあるなど、その音楽的素養は群を抜いていました。
デビュー後は多方面で大活躍していましたが、1992年に夫の郷鍈治を亡くしたのをきっかけに芸能界を引退。以降30年以上、公の場に姿を見せていません。このため“ちあき”の消息については、あれこれ憶測されることも多いようです。それでも今なお、多くの人の記憶の中で、彼女の歌声は色褪せていません。
ところで、この歌の舞台になっている、新宿駅西口北側にあった飲み屋街に限らず、1980年代には、全国の主要都市では、まだこうした盛り場が何ヶ所か残っていました。
元は、敗戦直後の"焼け跡闇市"から続くバラック的な店の集まりでしたが、駅前再開発の波に追われ大半の店が消えていく中で、ある一区画だけがそのまま居残っているという雰囲気の飲み屋街でした。大阪にも大阪駅西口前や十三辺りに、こういった雰囲気の店が数多く残っていましたが、いつの間にか無くなっています。
今は、「飲み会」も大手の居酒屋チェーン店のような所で催されることが殆どなので、表題曲のような雰囲気の店に行く人は少ないでしょう。屋台的な店は別ですが、こうした店には常連客が多いので、よほど場慣れした人でないと気後れがして、初めての店にブラリと入るのは、ためらう人が多いと思います。
店の客には「本当の酒飲み」が多く、他に客が居ず自分一人だけであろうと、その店で一人黙々と飲んでいる、というタイプの人が多かったようです。社用族が利用するような雰囲気の店ではないため、常連客をたくさん抱えていないと経営的に難しく、長続きしない店が多かったのだと思います。
こうした古い飲み屋街の衰退というのは、東京や大阪などの大都会より、むしろ地方都市の方が顕著で、その典型的な例が、岐阜の柳ケ瀬に見られます。岐阜の柳ケ瀬は中部地方随一の規模を誇る全蓋式アーケード街を擁し、地方都市の繁華街・歓楽街としては大規模で、かつては名古屋から訪れる人も多かった所です。1966年(昭和41年)には美川憲一が出した『柳ヶ瀬ブルース』が120万枚を超える大ヒット曲となり、柳ケ瀬商店街は全国的な知名度を得ました。
最盛期(昭和40年代)には、1,000軒以上の店舗が軒を連ね、劇場や映画館が12棟、キャバレーが11店舗、飲み屋やBARが300店舗以上存在したと言われています。 しかし、これほど栄えていた商店街が、今では完全にシャッター街化し、飲み屋はおろか、商店そのものが、ほとんど存在しないほど寂れてしまっています。
その理由としてよく挙げられているのは、郊外型の大型ショッピングセンターによって商店街の客が奪われ空洞化したという説です。しかし、より本質的な原因は、繊維産業衰退に伴う地場経済の崩壊にあります。かって柳ケ瀬周辺には多くの繊維会社が有り、その工場の労働者やその周りの人間が、繊維工業で潤った金を握りしめて柳ヶ瀬に集まる、という構図でした。
ところが、90年代以降のバブル経済崩壊で岐阜や一宮あたりの繊維産業が軒並み倒れました。基幹産業の繊維が傾くと、地方ゼネコンや周辺産業も煽りを受け、全国規模の企業が岐阜に構えていた支店も畳まれるなどして、岐阜の経済はあっという間に萎んでいきます。2005年(平成17年)に名鉄岐阜市内線(路面電車)が廃止され、鉄道駅からのアクセスが不便となったことで、さらに衰退に拍車がかかりました。
一度衰退傾向に陥ると、再び立て直すのは至難です。商店街でのイベント企画など若い人達による活性化プロジェクト活動により、賑わいを取り戻したように見える時期もありましたが、長期的には衰退への歯止めはかからず、今では多くのシャッターが閉ざされたままです。
地場産業の衰退という根本要因が解決しない限り、柳ケ瀬が元の繁栄を取り戻すのは難しそうですが、これは単なる一地方都市の商店街の問題にとどまりません。それは、地方の産業構造が変化し、コミュニティの基盤が失われる過程を映す“縮図”のように思えます。地場産業の崩壊が街の灯を消し、人の心の居場所を奪っていった柳ケ瀬――。まさに『紅とんぼ』の歌が象徴する時代の終わりと重なります。
『紅とんぼ』の歌がリリースされた昭和63年は、昭和という時代が終わり平成時代に入る直前でした。新宿の片隅で灯っていた、小さな赤提灯の明かり。その灯が消える夜を、しっとりと歌い上げたこの曲は、昭和の盛り場文化に幕を下ろすような情感と、ひとりの女性の終章が静かに重なり合い、人生の黄昏に舞う小さな灯りのようです。
哀しみよりも静かな諦念を感じさせ、まるで夕暮れの光のように、静かに沈みながら、この歌はいつまでも心の中に残ります。
<<参考音源>>
『紅とんぼ』の“ちあきなおみ” 歌唱版と、”ちあき”がその実力を遺憾なく発揮している『かもめの街』という作品(生ステージ録音)を、合わせてご紹介しておきます。
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