戦国の世を駆け抜けた名将・武田信玄。その生涯を讃える歌として昭和に大ヒットしたのが『武田節』です。勇ましい旋律と共に響く「風林火山」の詩吟は、戦国の智将の生き方を現代にも伝えています。今回は、この名曲と信玄の事績を重ね合わせながら、彼の戦と統治の思想をたどってみたいと思います。
この歌は昭和36年(1961)に発表され、三橋美智也の力強い歌声によって全国的なヒットとなりました。いわゆる「歴史歌謡」と呼ばれるジャンルの中でも、最もよく知られた名曲といえるでしょう。昔は宴会やカラオケの席に、山梨や静岡あたりの出身者がおられると、必ずといってよいほど、この歌が披露されたものです。
信州には、かつての信玄の侵略に未だにこだわりを持っている人もいて、この歌が全ての人に歓迎されていた訳ではないのですが、勇壮な旋律で歌詞には現代にも通じる教訓的なところがあり、好んで歌われることが多かった曲でした。
戦国時代最強と言われ「風林火山」の旗印の下に数々の戦を戦った武田晴信(信玄)ですが、その生涯における戦績は72 戦中、49 勝3 敗20 分(*1)だったとされています。意外に引き分けが多いように感じますが、当時の戦では敵味方がにらみ合いの末に和議を結ぶことも多く、これが当時の戦の常だったのかもしれません。
武田信玄の合戦の基本は、「風林火山」の旗印を見てもわかる通り「孫子の兵法」にありました。まず、負け戦が少ないということ。そして、攻撃戦が多く防衛戦が少ない、城攻めが多く野戦が少ないなど、その戦いぶりには明確な特徴があります。さらに、城攻めにおいては奇襲ではなく、正攻法である包囲攻城が多い。これらの戦法を駆使して、信玄は連戦連勝という輝かしい合戦歴を築き上げていました。
一方、数少ない負け戦となった戦いの相手は何れも北信濃の戦国大名「村上義清」でした。「武田信玄が負けた戦」として非常に有名なのは、通称『砥石崩れ(といしくずれ)』と呼ばれている砥石城攻めでの敗戦です。この敗戦を機に、信玄は以後の戦略をより緻密に練るようになったと伝えられます。
村上義清の出城であった砥石城は、規模だけ見れば小さな城でしたが、東西が崖という天然の要害で、攻め口は南西の崖しかなく、圧倒的に守るのに有利な地形でした。
未だ若かった晴信(信玄)は、それまでの戦での連勝で過信があったのか、予想外に堅牢だった砥石城を無理攻めし、苦戦している状態で村上軍の後詰に挟まれてしまいます。
その結果、挟み撃ちになってしまい、戦況が一気に不利になって多くの死傷者を出す大敗となりました。さらに、以前の戦で滅ぼした勢力への非情な処置が災いし、村上軍では信玄への憎しみが増していて、城内兵卒の士気が非常に高かったと言われています。
武田家は元々今の山梨県にあたる甲斐の国の守護大名だったのが、隣国の信濃・駿河・西上野および遠江・三河・美濃・飛騨などへ侵略して領土化しています。
信玄は天下統一を目指し、京都への西上作戦の途上に三河で病を発し病没しましたが、この「武田節」の3番は、信玄の宿願であった上洛前夜の宴を舞台に描かれているようです。1572年の終わり頃の様子でしょう。
信玄が戦法の基にした「孫氏の兵法(軍争篇)」は、好戦的と誤解されることが多いのですが、『孫子の兵法』の序文は「兵は詭道なり」という言葉で始まり、「可能であるなら外交によって戦争を回避すべき」という、外交・調略を重視する教えになっています。
「戦いは五分の勝利をもって上となし、七分を中となし、十分をもって下となる」という言葉を信玄は残しています。
完勝をしてしまうことで、驕りを生じ後のいい結果や軍の士気にはつながらない、完勝は悪影響が出やすく避けるべきで、五分の接戦が後の軍の励みになり、次の戦に備えることが出来ると考えたようです。目先の勝敗にのみとらわれず、先を見据えて物事を捉える信玄ならではの考え方です。
信玄の軍略は、単なる戦術の巧みさにとどまらず、組織運営の本質を突いていました。近年の研究で、信玄の武田軍団が強かった理由の一つとして、戦略と戦術を切り分けそれをうまく融合して戦った事が挙げられています。
戦(いくさ)に当たっての大きな方針や方向性を信玄が示し、実際の戦の場では、その時の状況に応じて配下の武将が臨機応変に判断し、戦いを進める「分権的運用」という方式で、これは現代のビジネスにおける成功の鉄則に似ています。というより、信玄の戦い方を現在のビジネス社会が手本にしているということかもしれません。
また領国となった土地を治めるには戦(いくさ)に強いだけでは、領民の支持は得られないので、やはりそれなりの治世、統治能力が必要とされました。この時代、領民(農民)が生活する上で一番困っていたのが河川の氾濫でした。
主領地である甲府盆地は、釜無川・笛吹川の二大河川の氾濫のため利用可能な耕地が少なく、年貢収入に期待できなかったのを、信玄期には大名権力により大規模な治水事業を行って改善しています。
「信玄堤」と言われる石垣の堤防を築き、川の流れの方向を変えて勢いを弱めたりして主要河川の氾濫を抑え、氾濫原の新田開発を精力的に実施して収穫高を増やしています。
こうした信玄の事績は、『甲陽軍鑑』という江戸時代初期に書かれた武田氏の戦略・戦術及び甲州武士の事績,心構えを記した軍学書を基に語られることが多いのですが、この本には後世の脚色があるとされているので、史実をそのまま伝えているとは言えないかもしれません。実際には民を抑圧し収穫物を搾取することも多かったのでしょう。
このため、信玄をむやみに理想化、神格化して読み取るのは危険ですが、『人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり』という人材育成を重視する考え方などは現代でも生かされているようです。
表題の『武田節』の歌には、2番と3番の間に有名な「風林火山」の詩吟が入ります。
疾(と)きこと 風の如く
徐(しず)かなること 林の如し
侵掠(しんりゃく)すること 火の如く
動かざること 山の如し
いざ戦争となった場合の動きを示すための言葉で武田流軍学の核心ですが、いわゆる机上の作戦を排し、千変万化する状況に適応していくという感覚です。転じて、「物事の対処の仕方」において、時機や情勢などに応じた適切な動き方を意味する言葉とも受け取れます。
この言葉が現代の経営者の間にも人気があるのは、グローバル化による競争が著しく、今の世の中を企業が生き抜いていくのは、信玄の生きた戦国時代と同じように、非常に難しい状況になっているからなのかもしれません。
戦を超えて人を思い、力よりも理を重んじた智将の生き方は、変化の激しい現代を生きる私たちにも、多くの示唆を与えてくれます。戦国の乱世を駆け抜けた信玄の知略と胆力、そして「風林火山」の旗印。 それは今も、人が生きる上での知恵として語り継がれています。
<<補注>>
(*1)武田信玄の生涯の戦績
一般的に広く知られている数字として、以下のようなものが見られます。
・72戦49勝3敗20分 (勝率94%超)
・71戦61勝2敗8分 (勝率97%とも)
・63戦46勝4敗13分 (勝率92.0%)
諸説によって差がある理由は、以下の点にあります。
1.戦いの定義の曖昧さ(合戦と小競り合いの区別)
2.勝ち・負け・引き分けの判定基準の曖昧さ
3.信頼できる公式記録の不在
<<参考文献>> 『甲陽軍鑑』甲陽叢書第一篇(ウイキソースより閲覧)
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