「さくら貝の歌」が生まれた由来

 この歌の作曲者である鈴木義光(八嶋秀章)は、北海道虻田郡真狩村の出身で、大正4年(1915)開拓農民の次男として生まれました。

 17歳の時に馬車ごと崖下に転落、この事故で脚に後遺症が残るほどの重傷を負います。その病床で、『ベートーヴェンの生涯』についての書籍を読んだことをきっかけに、音楽家を志す決意をしました。
 退院後、尋常小学校の先生に音楽の基礎を習い、オルガンの練習に励みます。

 その頃、真狩村のその小学校で顔を合わせた4歳年下の横山八重子という女性がいました。独学で作曲を勉強していた義光は、オルガンを弾きながら二人で語り合い、大ケガで前途を悲観していた義光をそれとなく励ましてくれる、八重子の乙女心が無性に嬉しく、「運命の初恋」と感じたそうです。

 リハビリの後、義光は八重子に自分の気持ちを伝えることもなく、昭和11年に21歳で上京。翌年から作曲家として活動を始めますが、上京から2年後の昭和13年に、肺結核に罹患し療養生活を余儀なくされます。


 そんな折、故郷から義光の初恋の人・横山八重子(小樽で看護婦として働いていた)が同じ肺結核で重体であるとの知らせが届きます。
 片恋だと思い込み、手紙も出せずにいた義光は、その時初めて自分の想いを書いた手紙を八重子に送りました。


 しばらくして、作曲と結核で疲れ果てていた義光の枕元に、故郷にいるべき八重子が立っているのを見ました。この時義光は八重子が亡くなったことを確信しました。後日の連絡によると、義光からの手紙が届く数時間前に息を引き取ったそうです。

 この後、義光は療養していた鎌倉の浜辺で桜貝の一片を拾い、短歌を詠みました。  
    【わが恋のごとく悲しや桜貝
            片ひらのみのさみしくありて】

 

 この短歌を、当時逗子町役場の職員だった友人の土屋花情に見せ、作詞を依頼しました。花情は逗子海岸を何度も散策して想を練り、自身の想いも重ねて歌詞を作しました。その歌詞に義光自身がメロディを付けたのが、この『さくら貝の歌』です。


 なお、義光のペンネームは、夢枕に立ったという初恋の人の、その死を悼んで、彼女の俗名「横山八重子」から「八」を、戒名「誓願院釈秀満大姉」から「秀」の字を貰って「八洲秀章」と付けたのだそうです。

 この歌は昭和14年には出来上がっていましたが、戦時下という時勢もあり、当時はほとんど知られていませんでした。戦後、義光の師となった山田耕筰がこの曲を気に入り、自ら編曲して、創作から10年後の昭和24年にNHK「ラジオ歌謡」として放送され、広く知られるようになりました。

 

 創唱したのは小川静江で、オリジナル録音は辻輝子です。それ以外にも、岡本敦郎、倍賞千恵子、鮫島有美子、安田姉妹をはじめ多くの歌手が歌っています。

 


<<参考文献>>
・原典『さくら貝の歌・八洲秀章(やしまひであき)の生涯』
   著者:下山光雄  発行:北海道真狩村発行
 なお、本稿は原典の書籍を直接確認したわけではなく、この原典を基に書かれた、幾つかのネット記事等を参考にさせていただきました。

・新潟市医師会報(令和6年12月号) 佐々木壽英氏によるネット記事、他

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