2025-07-15

鶴田浩二が歌う「流浪の旅」(哀歌に託された歴史の影、戦争の記憶と教訓)

流浪の旅(リンク)

 昭和の名優・鶴田浩二が歌う『流浪の旅』。その歌声に耳を傾けると、ただ一人の旅人ではなく、時代に翻弄された数多くの人生が浮かび上がってくるようです。今回の記事では、この歌を入り口に鶴田自身の半生や戦争との関わり、そしてNHKドキュメンタリー番組の内容までを辿りながら、過去と現代を繋ぐ考察をしてみたいと思います。


 『流浪(るろう)』とは、“定住地を持たず各地を転々と回る”という意味ですが、よく似た言葉である『放浪』が自らの意思で彷徨う(さまよう)ことを指すのに対し、『流浪』では社会情勢や家庭環境に流されて、やむなく彷徨う、というニュアンスが強くなります。


 この歌は、第一次世界大戦後の大恐慌が吹き荒れていた大正10年頃に、田舎から口減らしに身売りされ、外地を流転した“からゆきさん”を歌った哀歌だとされています。

 歌詞3番に出てくる「二八」は、28歳と勘違いされることが多いのですが、そうではなく2x8=16で、数えで16才を意味しています。


 歌い手は、東海林太郎(しょうじたろう)ですが、他にも何人かの歌手が歌っています。中でも、鶴田浩二特有の情感を湛えた歌声は哀愁を帯び、この歌を一層魅力的に感じさせています。


 本来の「からゆきさん哀歌」とは異なる歌詞解釈になりますが、当時『蒙古放浪歌』や『さすらいの唄』など、不景気な日本を離れて、壮大な大陸雄飛の夢を抱かすような歌が流行っていました。この『流浪の旅』は、そうした流浪の世界を、より壮大な「大陸浪人」的なイメージへと、昇華させているようにも感じられます。


 大陸浪人は、大言壮語して当時の青少年の大陸雄飛の夢を刺激する一方で、実際には大陸の厳しい気候や、日本とは桁違いの広大な荒野をさすらう中で、寂しさや望郷の思いにかられてしまうことが多かったようです。


 この歌は大正10年(1921年)の作品で、昭和初期の大陸歌謡ブームの先駆け的な歌の一つですが、いかにも昔風の旋律でありながら、壮大な夢が破れた、さすらい者の哀感が強く感じられ、心を揺さぶられます。


 この曲を歌っていた鶴田浩二は兵庫県の西宮生まれで、幼少期、母親が水商売をしていたこともあって、目の不自由な祖母との二人暮らしの極貧の中で育ちました。鶴田自身は嫌いなものとして「夕陽」を挙げていますが、それは祖母と見た毎日の光景に、貧しさと寂しさの象徴を重ねていたからかもしれません。


 それほどまでに、幼少期の生活は厳しく、苦しい記憶だったのでしょう。後に鶴田の娘が語っていますが、父の少年時代の思い出話では、友達と遊んだとかそういった、ほのぼのとした話題は、一切語らなかったそうです。


 戦後、映画俳優になった鶴田は、特攻隊の出身で特攻崩れだとしていましたが、実際には元「大井海軍航空隊整備科予備士官」であり、出撃する特攻機を見送る立場にありました。特攻隊生き残りの経歴については、映画会社が宣伝の一環で捏造し、本人も積極的に否定せず、特攻崩れを自称する当時の風潮に迎合しただけ、というのが実情とされています。


 戦争末期には、特攻に出て行く航空機の整備工的な任務を担っていて、実際に多くの特攻兵士の出撃を見送っています。

 このため、戦争指導者を憎むこと甚だしく、「特攻隊は外道の戦術」と公に批判し、戦後、黙々と働いては、巨額の私財を使って戦没者の遺骨収集に尽力したことで知られています。


 ところで、この特攻は「KAMIKAZE(カミカゼ)」として国内はもとより、世界で語り継がれていますが、本当の実態については、意外と知られていません。最近、NHKのドキュメンタリー番組で、【“一億特攻”への道 ~隊員4,000人(生と死の記録)~】が放映されました。


 この番組では15年に及ぶ取材で、特攻隊員約4,000人の本籍地や経歴を徹底調査。隊員がどのように選別されたのか、これまで謎だったその実態に迫る極秘資料も入手して、明らかにしています。


 私も『きけわだつみのこえ』など故人の記録を通して、特攻について漠然と理解していたものの、その全体像は中々分からないことが多かったのですが、この番組を見てその実態を知ることが出来ました。


 物事は色々な視点で考えることが大事なので、この番組制作者の視点からの番組内容を、全面的に信用してしまうのは危険ですが、客観的な資料や映像を長い期間をかけて非常に丁寧に調査していますので、概ねその実態に迫っていると思えました。


 「特攻」は、今から80年前、太平洋戦争終盤の1944年10月に始められ、終戦当日まで10か月にわたり続けられました。太平洋戦争が、3年目に入ったこの年、アメリカの圧倒的な航空戦力を前に、日本は敗退を重ねていましたが、7月には、本土防衛の要とされていたサイパンが陥落。


 戦闘の巻き添えとなって、民間人およそ1万人が犠牲となり、この島から大型爆撃機による本土への空襲が始まろうとしていました。そして10月、日本軍が決戦場としていたフィリピンにアメリカの大軍が押し寄せました。


 それを迎え撃つ隊員たちの中で、3名の予科練出身者が零戦で敵艦への最初の体当たりを試みたのが、特攻の始まりだったとされています。実はアメリカ側でこの時の映像を残していて、その映像をコマ送りにして見てみると、きりもみをしながら空母の飛行甲板目がけて急降下していっているというのが分かります。


 これ以降、次々と同様の行為が繰り返され、それが拡大していくことになります。一時的な命令だったはずの特攻は、軍の正式な作戦となり継続されました。戦死した隊員の出身地は、11月の終わりまでに全国248か所に増えていきます。そして、特攻を後押しする歯車が回り始め、マスコミは、国を救う自己犠牲の美談として、特攻を報じ始めます。


 ところで、特攻隊員は、いったいどのように選ばれていったのか。実は海軍省では、主に国内で訓練中の搭乗員たちに特攻に志願するか、一人一人、意向を調べていたとされていましたが、実態はこれまで謎でした。番組では、その真相に迫る重要な資料を紹介しています。 


 海軍省の調査に基づき、55の航空隊が出した搭乗員のリストです。一番上の欄には、志願の程度を表す文字。その下の欄には、人物評。搭乗員としての適性や技量について、上官のコメントが添えられていました。このリストを踏まえ、海軍省が特攻隊員を選び、前線に送り出していたと考えられています。


 志願の程度は3択で、『熱望』『望』『否』でした。実際の記録を確認すると、『望』が多く、続いて『熱望』で、『否』も僅かにいたようです。『望』と書いている人は、気持ちとしては『否』に近いと思われますが、当時の雰囲気として『否』とは書きづらい。


 かといって『熱望』ではないから、『望』と小さい字で書くという雰囲気だったようです。また、学徒出身者は指導する立場であり、部下が『熱望』や『望』と書いているのに、「自分が『否』とは、とても書けなかったのでしょう。


 ところが、海軍省の線引きの基準は『熱望』か『望』かだけではなかったようです。『熱望』と書いた人でも選ばれなかった人も多い。海軍としても、優秀な男を特攻の一回で死なせるのはもったいないというのがあり、成績の最上位の人は残されて、上位から中の上ぐらいの人が出されて、下位の人はかえって出されていません。


 成績が下位の人は、まともな操縦訓練を受けないまま配属されていて、そのまま出撃して体当たりしても、敵艦へ当たる可能性がほとんどなく、無駄死になってしまうことを、海軍省も分かっていたのでしょう。実際には特攻機が敵艦にあたる確率は極めて低く、無駄に海上へ落下していった数の方がはるかに多かったようです。


 番組では最後に特攻について、識者の感想という形で以下のようなことを述べています。

【特攻作戦は、単に軍の指導者たちが勝手に推し進めたものではなく、それを支持する世論や国民の感情が背景になければ、あれほどの熱狂は広がらなかったのではないか。】・・・この言葉が胸に響きました。


 フィリピンで体当たり攻撃が始まって僅か1か月余りで「一億特攻」という言葉が新聞に登場し、瞬く間に広がり、人々が口にするスローガンになりました。このスローガンは、銃後の熱狂、即ち「国民の後押し」があってこそだった訳です。


 国を覆う熱狂を更に燃え上がらせたものがあります。戦争の時代に急速に普及した、ラジオです。日本放送協会(現・NHK)が、特攻隊員の遺言を放送したりして、国民感情を煽っていました。一億総特攻が、終戦の8月までの日本人に与えた影響というのは、「特攻さえやっていれば何とかなるかもしれない。」そう思わせることで、戦争への批判や異論を封じていたこと。これに尽きると思います。


 確かに、今現在も、国民の熱狂というのはオリンピックやサッカーのワールドカップ、或いは野球のWBCなどで、雰囲気的にその片鱗が感じられることがあります。これが形を変えて、戦争に繋がらないとは言えず、かつてのように「熱狂」が社会全体を覆い、冷静な思考を奪ってしまう可能性が、ゼロとは言えないような怖さを感じます。


 また、特攻隊員の選別基準などは、現代の企業におけるリストラ時の判断基準と、どこか重なる部分があります。さらに、当時のラジオが今はSNSに置き換わっています。情報伝播の怖さという点では、SNSの影響力は、当時のラジオとは比べ物にならない程大きいでしょう。


 特攻で失われた命は惜しみても余りありますが、この特攻の教訓を本当に生かすこと、それが、特攻で亡くなった人達への償いになるのだと、改めて痛感させられます。


<<参考音源>>

東京リーダーターフェル1925の「流浪の旅」


<<参考資料>>

NHKスペシャル「一億特攻への道 ~隊員4,000人(生と死の記録)~」

2024年8月17日初回放送


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