昭和30年代に発表された『あゝ新撰組』という歌謡曲をご存じでしょうか。今回は この曲の魅力と、それにまつわる歴史への想いを、少し綴ってみたいと思います。 この曲は心を揺さぶるような力強い旋律が特徴です。現在でも、街宣車などから流されることがあり、それだけ耳に残るインパクトのある歌なのでしょう。
作詞を手がけたのは、『あざみの歌』や『川は流れる』といった叙情歌で知られる横井弘。意外にも、こうした勇壮な楽曲にも筆を取っていたことに少し驚かされます。歌い手は三橋美智也。歌入りの録音も素晴らしいのですが、リンク先のインストゥルメンタル(器楽演奏)で聴くとより一層味わい深く感じられます。
特に印象的なのは、1番の後に挿入される琴の音色を交えた間奏と、2番の後に突然現れる「トンヤレ節(宮さん宮さん)」の引用。どちらも意表を突く展開で、編曲と演奏の妙に感動させられます。
この歌をきっかけに、新撰組そのものにも思いを馳せてみると、また違った面白さが見えてきます。司馬遼太郎の歴史小説『燃えよ剣』は、副長・土方歳三の生涯を描いた作品で、『坂の上の雲』『竜馬がゆく』と並ぶ代表作として知られています。新撰組が活躍した幕末は、それほど古い時代ではないため、多くの史料や証言が残されています。明治維新後も生き残った隊士が8名おり、彼らから直接の聞き取りもなされました。大正時代には史談会が開かれ、箱館戦争などに関する貴重な証言が『新撰組証言録』としてまとめられています。
二番隊組長だった永倉新八は、池田屋事件では近藤勇とともに突入し、沖田総司や藤堂平助が倒れる中、死闘を繰り広げました。戊辰戦争では鳥羽・伏見、甲州勝沼と転戦した後に離隊し、維新後は松前藩に戻って樺戸集治監で剣術師範を務めたり、東北帝国大学(現在の北海道大学)の剣道部を指導したりと、剣士としての人生を歩みました。
生き残った隊士たちは謹慎生活を経て、それぞれ異なる道を歩みました。京都・西本願寺で夜間警備員を務めた人、東京に移住し警視庁に勤務した人、静岡県浜松で質屋や鉄砲店を営んだ人、明治政府に出仕して西南戦争にも従軍した人、小学校の用務員になった人……。その後の人生は多様です。中でも最後の新撰組隊士と言われた池田七三郎は、昭和13(1938)年まで存命し、90歳で没したそうです。
幕末当時の新撰組の行動を現代の視点で冷静に見ると、「単なるテロ集団だった」という見方もあります。しかし、一人ひとりは純粋な使命感に突き動かされていた人々だったに違いありません。どんな組織も、規模が大きくなるにつれて統制が難しくなり、当初の理想から離れていくことがあります。近年で言えば、赤軍派やオウム真理教の例が思い起こされます。
新撰組は、局長・近藤勇と副長・土方歳三という、優れた見識と統率力を持つ指導者がいたからこそ、組織としての規律を保てたのでしょう。もし凡庸な指導者であったなら、とんでもない集団に堕していたかもしれません。
幕末や明治維新というと、遥か昔の歴史物語のように感じますが、大政奉還が行われた明治元年は約150年前の出来事。決して遠い昔ではありません。私の父方の曾祖父(祖父の父)は弘化二年生まれで、その年は幕府の筆頭老中・水野忠邦が失脚した年。また曾祖母(祖父の母)は嘉永二年生まれで、ペリー艦隊が浦賀沖に現れる4年前にあたります。母方の曾祖父(祖父の父)は、鎮歩兵第八総隊の一員として西郷隆盛が起こした「西南の役」の鎮圧に加わり、明治10年3月14日、熊本県二俣田原坂の戦いで負傷した記録が残っています。
こうして自分の身近な先祖の事績をたどると、歴史上の出来事が一気に身近に感じられます。『あゝ新撰組』は、彰義隊士として箱館戦争に従軍した祖父を持つ作家・子母澤寛の小説『新撰組始末記』を基にしたテレビドラマの主題歌として生まれました。この歌を耳にするたび、新撰組の隊士たちが生きた幕末の熱気が蘇り、遠い歴史の中に消えた彼らの姿がどこか懐かしく、胸に浮かんできます。
0 件のコメント:
コメントを投稿