昭和61年(1986年)にリリースされた、石原裕次郎の晩年(と言っても未だ50代前半でしたが)を彩る一曲です。同じ時期に大ヒットした『北の旅人』に比べると、この『想い出はアカシア』は、やや知名度が低いかもしれません。
晩年の裕次郎が醸し出す柔らかな雰囲気が良く表れており、どちらも素晴らしい楽曲ですが、私は特にこの『想い出はアカシア』の方に、しみじみとした哀愁をより強く感じ、深く心を惹かれます。
ところで、この歌のタイトルは『想い出はアカシア』となっています。一般的には『想い出のアカシア』としそうなところですが、あえて「の」ではなく「は」としたところに、作詞家・山口洋子の鋭い感性と深い表現力が感じられます。
『想い出(の)アカシア』であれば、想い出の対象がアカシアだけに限定されてしまう印象があります。しかし、『想い出(は)アカシア』とすることで、想い出の対象がアカシアだけではなく、その木の周りの風景や、共にそれを眺めた人、その時の出来事、相手の表情など──想い出の情景が一気に広がっていくように思えるのです。
これはあくまで私の個人的な解釈にすぎませんが、山口洋子も、このタイトルを付けた時、これに近い事を考えたのではないかと思っています。
この歌詞から、少しこの歌詞の世界に思いを巡らせてみましょう。二人が日昏刻(ひぐれどき)に見ていたのは、真っ白な花を咲かせたアカシアです。しかし、実際に心に浮かんでいるのは、その花そのものではなく、その時そこにあった雰囲気──つまり「気」(空気感)だったのではないでしょうか。
多くを語らず、ほとんど無言に近い状態だった二人の胸の内が、アカシアの花を通して互いに伝わり合い、その瞬間の感情や想いを、後になってふと想い出す──そんな情景が浮かびます。人にはそれぞれ、生涯心に刻まれている風景がありますが、それは単なる風景というよりも、その背景にある人との記憶や想いに結びついている事が多いように思います。
昔の人は「花見」や「月見」を好んで楽しんでいたと言われますが、実際に味わっていたのは、花や月そのものではなく、それを眺めている場の雰囲気──「気」だったのです。「気を味わう」と聞くと、どこか高尚で、自分には縁遠いもののように感じられるかもしれません。しかし、この感覚は今の若い人たちも、実は同じように体験しているはずです。
たとえば、人気歌手のライブ会場。観客が楽しんでいるのは、歌そのものだけではなく、大勢のファンが一体となって盛り上がっている、その場の雰囲気そのもの──つまり「気」のようなものが大きな魅力になっているのではないでしょうか。この場合、「花」が「歌」に、「花が発する気」が「ライブ会場の一体感」に置き換わっているだけで、その本質は変わらないように思えます。
裕次郎の歌声とともに蘇るあの「気」の記憶──それはきっと、時代を越えて聴く人の心にも静かに沁み渡るのではないでしょうか。
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