『月の沙漠』は、誰もが子どもの頃に一度は耳にしたことのある童謡だと思います。しかし不思議なことに、大人になって改めて聴いてみると、そこには言いようのない寂しさや幻想が漂っていることに気づかされます。
ラクダに乗った王子様とお姫様が、金と銀の甕(かめ)を携えて、広大な砂漠をとぼとぼと旅していく。物語はただそれだけのようでいて、なぜか心の奥に残り続ける・・・。
年齢を重ねるほどに、その情景が何か大切なことを語りかけてくるような気がしてならないのです。リンク先のコメント欄では、様々な解釈がなされていますが、ここではそれらを整理してご紹介したいと思います。
この歌詞をそのまま素直に読むならば、「王子様とお姫様が砂漠を旅する幻想的な物語だ」と解釈できます。確かに、子ども向けの童謡としてファンタジー世界を描いたものだと受け止めるのが自然かもしれません。けれど、ただのメルヘンにしてはどこか「説明のつかない哀しさ」が漂います。使われている言葉は非常に簡素で、説明的な表現は少ないのに、何故こんなに余韻が深いのでしょう。
一方、「王子と姫が国を追われ、逃避行をしている場面を描いたのではないか」という現実的な説もあります。金と銀の甕を携え、どこへ向かうとも知れぬ旅をしているという描写からは、もはや帰る場所を失った者たちの影がちらつきます。かつての栄華を背に、砂漠をとぼとぼと歩く二人の姿は、ある意味で“栄光の喪失”そのものかもしれません。
もっとも多く語られているのが、「この歌は死後の世界への旅を暗示しているのでは」という解釈です。とりわけ、作詞者の「加藤まさを」がこの詩を綴った当時、結核で療養していたことを踏まえると、そう考える人が多いのも頷けます。
ある方のコメントがとても印象的でした。
「仲の良い夫婦が、生涯をかけて積み重ねた徳を、金銀の甕に収めて西方浄土へ旅立っていく──」
静かに、何も語らずに、人生の終焉へと向かう後ろ姿に、自らの姿を重ねるような感覚が、この歌には確かにあります。「行く」は「逝く」。そう考えると、この歌詞に込められた寂寥感や哀しみが、深く腑に落ちてきます。
さらに、少数ながら非常にスケールの大きな解釈も存在します。それは、この歌を「人類の旅」の象徴と捉えるものです。
《我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか》
フランスの画家ポール・ゴーギャンが描いた絵画の題名にちなんで、『月の沙漠』の歌詞は、人類が宇宙へと旅立つ未来の姿を詩的に描いたものでは、というのです。
砂漠を旅する王子と姫は人類の祖型であり、月の光は無数の星々を連想させ、静寂の旅は宇宙空間そのもの。そんな壮大な想像も、詩の力によって不思議と現実味を帯びてくるのです。
また別の見方では、「これは理想的な夫婦愛を描いた歌であり、人生という旅路を二人で歩む様子を表現している」と捉える方もいます。ラクダにまたがる王子と姫は、人生の荒波を共に越えてきた夫婦の象徴。沈黙の中で支え合い、同じ歩調で歩む姿に、静かな尊さが滲んでいます。
作詞した「加藤まさを」本人は、「療養中の御宿の海岸で見た幻想がきっかけだった」と語っています。けれど、芸術作品とは本来、作者の意図を超えて生きていくもの。どれだけの物語を、その作品から自分自身で紡げるかが、鑑賞の醍醐味です。
『月の沙漠』の歌詞は、説明的な表現を避け、使われている言葉も極めて素朴です。けれども、その“余白”こそが、多くの解釈を呼び寄せ、聴く者の心に静かに浸透していくのだと思います。時には人生を、時には別れを、時には未来を。読み手の想像力と人生経験に応じて、無限の意味をもつ歌。それこそが名作の証ではないでしょうか。
この『月の沙漠』の情景を思い浮かべるとき、私は時折、それがまるで人生の姿のように思えてなりません。果てしない砂の道、どこへ向かうとも知れない旅。愛する人と共に歩み、過去を背に、未来へ向かう。ときには沈黙がすべてを語り、寂しさこそが深い充足を教えてくれる。
時代がどう移り変わろうとも、この歌はきっと、私たちの心の奥に、静かに語りかけ続けるでしょう。
<参考音源>
山崎ハコさんによる「月の沙漠」の歌唱は、とくに寂寥感が深く、心にしみわたります。
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