2025-05-19

並木の雨(平凡な情景の美しさ)

並木の雨(リンク)

 並木路(なみきみち)は、全国いたる所で見かけますが、この言葉からは、次のような有名な並木道を思い浮かべる人が多いかもしれません。

・東京明治神宮外苑や大阪御堂筋のイチョウ並木 

・京都嵯峨野の竹林の道

 ・札幌のポプラ並木やアカシア並木 

 ・箱根や日光の杉並木

 

こうした並木道は、四季折々の風景とともに私たちの記憶の中に深く刻まれています。現在、街路樹として最も多く使われているのはイチョウで、続いてサクラ、ケヤキ、ハナミズキ、トウカエデといった木々が並びます。

かつて江戸の風物詩として知られた銀座の柳並木(やなぎなみき)は、今ではほとんど姿を消し、現在植えられているのはカツラの木だそうです。

 

表題曲では、雨に濡れる並木道を歩くなかで、かつて別れた人にどこか似た面影の人物を人混みの中に見かけた──という、ほんのささやかな情景が描かれています。


特別な出来事が起こるわけでもありません。ただ、それだけの光景。

それにもかかわらず、心にじんわりと沁みわたり、やわらかなメロディとともに、聴く者を穏やかな気持ちにさせてくれます。ゆったりとした旋律は、しとしとと降る雨音を思わせ、並木の葉が揺れる音まで聞こえてくるようです。

 

では、何故このような「ただの情景」が、私たちの心に深く残るのでしょうか。それは、おそらく「平凡であるがゆえ」に、多くの人の共感を呼び起こすからではないかと思います。

 

ここでひとつ、昭和30年代前半を舞台にした、あるエピソードをご紹介します。ジャーナリスト・辰濃和夫氏が、著書『ぼんやりの時間』(岩波新書)の中で紹介している、当時の、小学四年生の少女による作文です。

 

【夜七時ごろ、私が窓のところに行ってみたら、コオロギが『リーリーコロコロ』と鳴いていました。私はベランダに出て、その声をしばらく聞いていました。

そして、お父さんに『コオロギが鳴いているよ』と言ったら、『どれどれ』と言ってベランダに出てきて、『本当だね。もう秋だね』と言って、ラジオを聞きに行きました……」】

  

著者の辰濃和夫氏は、この作文について、次のように述べています。

『父と娘が、一緒になってコオロギの声を聞く。そういう情景は昨今ではそう多くは見られないだろう。「本当だね、もう秋だね」という父親の言葉には、平凡だがその分、日常性があり、いい作文だと思った。

親が子と一緒に月を見る。北斗七星を見る。梅の花や沈丁花の香りをたのしむ。蜩の声を聞く。そういう時間は、無駄といえば無駄かもしれない。が、無駄であるにしても、なんと「貴いむだ」だろうか。』

 

私もこの少女の作文を読んで、何ともいえない暖かさを感じました。平凡過ぎるぐらい平凡な日常の一コマなのですが、その素直な文章から、少女とその父との良好な関係が感じとれます。また、この情景を作文にしたという事は、その少女にとっても、その時父と一緒にコオロギの声を聞いたということが、大変印象深いできごとだったのでしょう。

この父との平凡な一時(ひととき)が、懐かしい思い出として、この少女の心の奥に、一生残り続けるかもしれません。

 

 同じ著書の中には、もう一つ印象的な話が紹介されています。

【秋、金木犀の花が漂い始める頃、ある先生が学校のそばの金木犀の大木のところに生徒たちを連れて行った。しばらく、その香りを楽しむ。ただそれだけの行事だったが、多くの子はその香りに鮮烈な印象を受けたらしい。

 

その香りを、「あま~くて、まるでおいしいあめをしゃぶっているみたいな香り」と言っていた子は、毎年「先生、今年も金木犀の香る季節になりました」という葉書きを送ってくれる。そのクラスの多くの子は、金木犀の香る季節になると、その香りの奥にある小学校を思い出し、先生と風が送る金木犀の香りを感じ、人が自然と共にある時の心の豊かさを思い出す。教育というものの、そうあってもらいたい姿の一つではないか。】

 

長々と引用してしまいましたが、この話からは、教育というものの本質を考えさせられました。わざわざ金木犀の香りを嗅ぐという行為は、日常生活の中では有るようで中々無いものです。普通は一生知らないままで終わってしまう子もいるでしょう。

 

けれど、この授業を受けた子は、金木犀の香りがする季節になると、毎年その香りに注意し、その木を見つける度に小学校でのその授業や、その時一緒に居た先生や友達のことを、思い浮かべるに違いありません。「情緒の養成」などという難しい言葉を使うまでもなく、自然にそれを成し遂げられた、その先生の授業は本当に素晴らしいと感じました。

  

表題曲『並木の雨』が心に残る理由も、こうした「平穏な日常」の中にある“情緒の力ではないでしょうか。ふと見かけた面影、雨のにおい、濡れた並木道、・・・・。誰の記憶の中にも似たような情景があり、だからこそ、この歌に共感し、安らぎを感じるのだと思います。

 

昭和初期に生まれたこの歌は、時代が令和に変わってもなお、色褪せることのない名歌です。そしてそれは、私たちの暮らしの中にある“平凡な情景”の美しさを、改めて気づかせてくれる存在でもあるのです。

 

※参考文献:

岩波新書『ぼんやりの時間』辰濃和夫 著

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