『北国の春』──そのタイトルを耳にするだけで、雪解けの匂いとともに、懐かしい昭和の情景が胸に蘇ってきます。千昌夫がこの歌を世に送り出したのは、昭和52(1977)年2月のことでした。
発売当初はそれほど話題にはなりませんでしたが、2年後の昭和54年になってから爆発的な人気となり、日本全国に知られる歌になりました。そればかりか、この歌は中国をはじめアジア各国でも愛唱されるようになり、当時としては驚くべき、国際的な広がりを見せる大ヒット曲になっています。
今のJ-popや和製ロック系の歌なら海外でもヒットしそうに思えます。けれど、日本の田舎風景を朴訥に歌ったこの曲の良さが、気候風土や生活環境の全く異なる、異国の人々の心にも届くとは、当時の私たちは思いもしませんでした。
しかし、冷静に考えてみると、海外の人からは、日本と言えば「富士山と芸者」としか思われていなかった時代に、その日本でジャズやロックが流行るとは、当時のアメリカ人も想像していなかったでしょう。
こうした事から考えると、音楽というのは、他国の模倣ではない、その国の風土に根付いた本物の歌こそが、風土や民族の違いを超え、心の深い所で共感を呼ぶのだと感じます。
ところで、この歌の主題としている地域は、『北国の春』というタイトルや、歌い手である千昌夫が岩手県出身であることから、てっきり東北地方のように思い込んでいました。しかし実際には、作詞を担当した、“いではく(井出博正)”の故郷、信州野辺山高原の、春の情景を思い描いて、書かれたものだそうです。
都会に出た若者が、懐かしい故郷を思い出し、かって心を寄せていた女性に想いを馳せる──そんなテーマの歌は、『柿の木坂の家』や『夕焼け雲』など他にも数多くありますが、やはりこの『北国の春』がもっとも広く知られ、愛され続けている一曲ではないでしょうか。
千昌夫は、技巧的に上手な歌い手ではないかもしれません。しかし、その素朴な歌声と、飾らない朴訥な歌い方が、この歌の持つ温かさや郷愁を誘うメロディに合っていて、人々の心に深く響いたのだと思います。
もし上手な歌手が、朗々とした美声でこの歌を歌われていたら、ここまでの共感を得られなかったかもしれません。
また、この歌が今も高齢者を中心に長く親しまれている理由の一つは、「歌いやすさ」にあると思います。いくら良い曲でも、覚えにくく、音域が広すぎて素人が歌えないような歌は、一部のファンには支持されても、広く長く愛されることは難しいでしょう。
現代のヒット曲の多くは、曲が長く音程の起伏も激しく、一般の人が気軽に口ずさむには向いていないものが多く見受けられます。こうしたことから考えると、今ヒットしている歌の多くは、数十年後には人々の記憶から、消え去っているのではないでしょうか。
一方で、時代の変遷に関わらず、何十年経っても人々の心に残る歌というのは、非常に稀な存在です。それは、意識して作ろうと思って作れるものではなく、時代背景や人々の心の機微、そして偶然の巡り合わせが重なって、初めて生まれるのだと思います。
まさに、この『北国の春』の歌がそうでした。高度成長期の真っただ中、日々の仕事に追われ疲弊していた多くの人々が、都会の喧騒の中で心のどこかで求めていた“素朴さ”や“安らぎ”──それを、この歌は無意識のうちに代弁していたのでしょう。
そして今、技術革新が加速度的に進み、情報に追われ、心の余白を失いがちな現代の都市生活者にとっても、この『北国の春』の歌が描き出す雪解けの情景と、穏やかで素朴なメロディは、どこか懐かしく心をそっと緩めてくれる、貴重な存在になるような気がしています。
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