2025-05-26

小林啓子が歌う「比叡おろし」(無常を奏でる鼓の響き)

比叡おろし(リンク)

(注)小林啓子の歌は、リンク先の下の方にあります。


 美しいメロディに包まれたこの曲が、“知の巨人”として知られる松岡正剛による作詞・作曲であると知り驚きました。意外にも、彼が若き日の失恋の経験をもとに書き下ろした作品とのことです。


 歌詞は難解で、意味を一つひとつ解釈しようとすると戸惑いますが、リンク先のブログ管理人さんが述べておられるように、こういった曲は、言葉の意味にとらわれ過ぎず、全体から立ち上る情感や空気感を感じ取ればよいのかもしれません。 


 この曲はさまざまな歌手によってカバーされていますが、小林啓子の歌唱には、他とは一線を画す独特の味わいがあります。持ち味である少し低めの声質と、情念のようなものを感じさせる歌唱が、この曲の雰囲気と相性がよく、非常に強い印象を残します。その印象の強さには、あらかじめ「有名な思想家、松岡正剛の作品である」という聴き手の先入観も影響しているのかもしれません。

 

 話は変わりますが、タイトルの”比叡”と歌い手の”小林”という名前から、ふと連想が及んだのは、昭和初期の随筆家・思想家であり、日本の文芸評論の礎を築いた小林秀雄の著作でした。彼には『無常ということ』という、比叡山を歩いた際の体験を綴った短い随筆があります。この作品は、鎌倉時代の法談集『一言芳談抄(いちごんほうだんしょう)』に収められた一文から始まります。

 

【ある人いはく、比叡の御社に、偽りてかんなぎのまねしたるなま女房の、十禅師の御前にて、夜うち深け、人しづまりて後、ていとうていとうと、つゞみを打ちて、心すましたる声にて、とてもかくても候、なうなうとうたひけり。其心を人にしひ問はれて云、…生死無常の有様を思ふに、此世のことはとてもかくても候、なう後世をたすけ給へと申すなり。云々】

 

 これを現代語に訳すと、次のような意味になります。

【ある人が言った。比叡山の日吉大社に、身分を偽って神職の真似をしていた、不慣れな女官がいた。ある夜、七社権現の一つである十禅師の御前で、夜が更け、人々が眠り静まった頃、その女官はぽんぽんと鼓を打ち、「とてもかくても候、なうなう」と、心を鎮めた声で歌を口ずさんだ。


その真意を人に問われた彼女はこう言った──人の世は生死を避けることのできない、無常の世界である。そう思えば、この現世がどうなろうと構いません。どうか来世をお救いください、・・・と。】

 

 小林秀雄の随筆『無常ということ』は、文庫本でわずか5ページほどの短い作品ながら、非常に難解で知られています。人間存在の根本にある「この世の無常とは何か」に迫ろうとする内容で、多くの識者がこれまでに様々な解釈を試みてきました。その最後に、小林はこう記しています。

 

「現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、無常という事がわかっていない。常なるものを見失ったからである。」

 

 小林の言いたかったのは、当時の宮仕えの女性には、明確な死生観があったということでしょう。人は皆、老いと死という宿命の流れの中に生きており、それは自分の意識を超えた絶対的な事実である。にもかかわらず、現代人はこの「無常」を正面から受け止めず、まるでそれが存在しないかのように日々を過ごしている。

──そういう警鐘だったのではないかと、私は感じます。

 

 現代のSNSの世界では、自分と異なる意見に一切耳を貸さず、相手を攻撃することに終始し、何が何でも優位に立とうとするような言動がしばしば見られます。そうした人々を見るにつけ、小林が言った「この世は無常、ということが分かっていない現代人」とは、まさにこうした振る舞いを指していたのではないかと思えてなりません。

 

 さて、話を『比叡おろし』に戻します。この曲は、松岡正剛が21歳という若さで、自身の失恋体験をもとに書き上げたものです。歌詞には巧みに比喩が散りばめられており、一読しただけでは意味が掴みにくい部分もあります。そのため、一般にはあまり知られていないようですが、その独特な味わいと余韻は、今の時代にも十分に価値があると感じます。

 

 松岡自身は、世に広めることを目的としたわけではなく、ただ自らの気持ちを見つめ直すために、この曲を書いたのだと思います。それでも、こうして時を越えて耳に届いた『比叡おろし』の旋律は、比叡山に響いたあの鼓の音のように、私たちに“無常”の響きをそっと伝えているように思えるのです。


<参考文献> 新潮文庫『モオツアルト・無常という事』小林秀雄 著


<参考音源> 小林啓子の「こころあたり」

 同じ小林啓子が歌う「こころあたり」という、隠れた名曲があります。しみじみ感のある良い歌ですが「比叡おろし」以上に、知る人が少なくなっている曲です。

 小林啓子の「こころあたり」」(リンク)



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