■面影橋
面影橋は、高田馬場のほど近くにある、ごく普通の小さな橋です。見た目に特別な趣があるわけではありませんが、その名前にはどこかロマンが漂い、耳にするたびに胸の奥がほんのりと温かくなります。
この橋の名前の由来には諸説ありますが、最もよく知られているのは、和田靱負(わだ・ゆきえ)という武士の娘、於戸姫(おとひめ)にまつわるものです。
【昔この地に住んでいた和田靱負という武士の娘、於戸姫が、不幸に見舞われて川に身を投げた。その際に詠んだ一首の和歌を人々が悼み、橋から彼女の面影を偲ぶようになったことから、「面影橋」と呼ばれるようになった。】
橋のたもとには、10数年前までは小さな工場があり、その古びた門の脇には「山吹の里」の石碑がひっそりと佇んでいました。今ではその工場も姿を消し、跡地には近代的なマンションが建っています。それでも、碑だけは今もなおその場所に残されているようです。
この「山吹の里」の伝承地には、いくつか候補があるようですが、やはりこの面影橋周辺が最も有力とされています。碑が伝えているのは、太田道灌(おおた・どうかん)と山吹の花にまつわる、あの有名な逸話です。
【ある日、鷹狩りに出た道灌は、にわか雨に降られ、近くの粗末な家に駆け込みました。蓑を借りたいと声をかけると、年若い少女が出てきて、無言のまま山吹の花を一輪、差し出しました。
その意味が分からなかった道灌は立腹し、そのまま城に戻ります。
事情を話すと、ある古老が「それは平安時代の古歌『七重八重 花は咲けども 山吹の 実の一つだに 無きぞ悲しき』の引用で、蓑一つすら無い貧しさを山吹に託したものです」と教えたのです。
この出来事をきっかけに、道灌は己の無学を恥じ、和歌の道に励むようになったと言われています。】
東京は再開発によって、かつての風景は次々と姿を変えています。面影橋の周辺も、1979年にNSPの天野滋が歌に詠んだ当時とは、すっかり様変わりしました。それでも、この橋が架かる神田川の流れには、昔の面影がどこか残っているようにも思えます。
面影橋周辺は、昔も今も桜の名所と知られ、春には神田川遊歩道沿いに桜並木が続き、風情があります。また、あの頃よりも、川の水はずいぶんときれいになっているようです。時代が流れ、風景が変わっても、歌が描き出した情景は、今も私たちの胸の内に静かに流れ続けています。
■千登勢橋
西島三重子といえば、代表曲『池上線』があまりにも有名ですが、その陰に隠れるようにして、もうひとつの名曲『千登勢橋』があります。こちらも、甘く切ない青春の記憶を静かに描き出した、心に残る一曲です。
舞台となっているのは、面影橋と同じく「橋」。しかもこの二つの橋は、地理的にもそう遠く離れていません。どちらも1979年にリリースされた曲ですが、どこか似たような哀感が漂っており、聴き比べることでその共通点がより鮮明になります。
現実の橋としては、面影橋が神田川を跨ぐのに対し、千登勢橋は道路(明治通り)を跨ぐ跨道橋です。川の流れに寄り添う橋と、都市の喧騒をまたぐ橋。対照的な構造でありながら、歌の世界ではどちらも静かに過ぎ去った想い出を映し出す舞台となっています。
1970年代末のフォークソングには、時代の終わりを感じさせるような、かすかな寂しさがありました。高度経済成長が一段落し、人々が足元を見つめ直し始めた頃。そんな空気の中で生まれたこれらの曲は、聴く人の心の奥底に、当時の空気や記憶をそっと蘇らせてくれます。
橋とは不思議なものです。人と人、場所と場所を結ぶだけでなく、時に私たちの記憶や想いも、そっとつなぎとめてくれます。面影橋と千登勢橋。どちらも特別に大きい橋ではありませんが、その名を冠したフォークソングによって、今も多くの人の心に生き続けています。
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