『誰故草(たれゆえそう)』という名前の植物をご存じでしょうか。この可憐な花は、現在では絶滅危惧種に指定され、自然の中ではめったに見かけることができません。人里離れた山奥の小道の果て――そんな静かな場所に、そっと咲いていることが多いのだそうです。「誰のために、こんなにも可憐な花を咲かせているのか」そんな風情ある想いが込められて、この風流な名がつけられたと言われています。
この植物は、植物学の大家・牧野富太郎博士によって、明治32年に「エヒメアヤメ」と命名され、新種として植物学雑誌に発表されました。私は以前、東京の練馬に住んでいた頃、博士の旧宅跡にある(練馬区立)牧野記念庭園を訪れたことがあります。
博士が使っていた書斎や貴重な遺品、そして庭には、多くの珍しい植物が大切に育てられていました。もしかすると、あの庭のどこかに、この「誰故草」も咲いていたのかもしれません。そう思うと、今になって懐かしく心が和みます。
1994年7月、この『誰故草』というタイトルの歌が、菅原洋一さんの歌声によって発表されました。その頃だったと思いますが、テレビ番組「徹子の部屋」にゲスト出演された菅原さんが、番組内でこの曲を熱唱されているのを見た記憶があります。
その歌声と、詞や心に沁みるメロディの美しさに心を奪われ、「これは名曲だ。きっと多くの人の心に届くだろう」と強く感じたのですが、残念ながらヒットには至らず、今ではあまり知られていない一曲となってしまいました。
音楽の評価というのは不思議なもので、自分が本当に素晴らしいと感じた曲でも、世間ではほとんど評価されないことがあります。歌の好みというのは実に多様で、どんなに美しいメロディや歌詞であっても、すべての人の心に届くとは限らないのです。
また、このことは音楽に限った話ではありません。世の中には、表立って評価されることのない地味で重要な仕事が数多くあります。人の目には触れにくいけれど、無くてはならない役割を担っている人々――彼らの努力が、正当に評価される機会は、実はとても少ないのではないでしょうか。非常に難しい仕事であるにも関わらず、その困難さが全く理解されず、出来て当然のように思われることもあります。
即効性ばかりが求められる現代においては、結果の見えにくい仕事や、時間をかけて育まれるような価値が、軽んじられる傾向があります。しかし、本当に大切なことは、時間をかけて、丁寧に積み重ねていく過程にあるのだと思います。
これは職場だけでなく、家庭にも通じる話です。家事や介護といった日々の営みは、生活に欠かせないものでありながら、「やって当たり前」と見なされ、感謝や労いの言葉すら受け取れないこともあります。それが家庭内での不和や孤独を生む原因になることがあるはずです。
この『誰故草』の歌詞の中には、こんな印象的な一節があります。
「人恋しさに 鳥さえも はるか遠くへと とび去った」
この短いフレーズには、人は、どんなに時代や環境に影響されようとも、他者との心のふれあいを求め続ける存在であるという真実が、静かに、そして力強く語られているように思います。
今、私たちはLINEなどのSNSを通じて、人との繋がりを求めていますが、その根本にある想いは、昔も今も変わらないのかもしれません。誰にも気づかれず、それでもなお美しく咲く『誰故草』のように、私たちの営みもまた、誰かの心に届いているのだと信じたいです。
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