2025-06-02

智恵子抄(歌と詩と運命と)

智恵子抄(リンク)

『智恵子抄』というのは、詩人・高村光太郎が、妻・智恵子との30年にわたる軌跡を詩に綴った作品集の名前です。リンク先で紹介している楽曲は、この詩集の主人公である高村智恵子(旧姓・長沼チエ)をテーマにした歌で、昭和39年(1964)に、二代目コロムビア・ローズ(ローズⅡ)の歌唱によって大ヒットしました。

 二代目コロムビア・ローズが歌う『智恵子抄』(リンク)

 

二木楽団による演奏では、乾いた音色の管楽器(オーボエでしょうか)が心の奥深くまで染みわたるような印象を与えてくれます。一方、二代目コロムビア・ローズの澄みきった歌声も美しく、映像の演出も工夫が凝らされており、思わず見入ってしまいます。

この映像を見ながら、じっと歌を聴いていると、まるで、この歌手自身が智恵子に思えてくるような錯覚を覚えます。

 

 智恵子の生涯については、リンク先で非常に詳しく解説されています。なお、智恵子の実家(清酒「花霞」を醸造する酒造家)があった福島県の二本松市は、先の東北大震災での、原発事故による放射能被害が大きかった所でした。しかし、2023年には「汚染状況重点調査地域」の指定が解除されています。

 

 智恵子は後年、今で云う「統合失調症」を発症しますが、私はこれまで、「智恵子は若くして心を病んだのではないか」という、漠然とした印象を持っていました。しかし、智恵子の生涯を書いた詳しい解説を読むと、最初の症状が現れたのは45歳ぐらいの頃だったようですから、発症は思っていたよりも遅い時期だったことを知り、少し驚きました。

 

亡くなったのが52歳ですから、統合失調症で入退院を繰り返していたのは、45歳~52歳の約8年間ほどだったことになります。なお、死因は、若い頃から患っていた「粟粒性肺結核」だったとされています。

 

統合失調症は認知症とは異なり、幻覚や妄想などが主な症状の精神疾患で、進行すると認知症を発症するリスクも高まると言われています。療養中には夫・光太郎や、看護師として働いていた姪・春子の支えもあり、比較的恵まれた環境で過ごすことができたようです。

  

詩集『智恵子抄』は、智恵子が亡くなった3年後の1941年(昭和16年)、光太郎によって出版されました。この詩集には、智恵子を想う光太郎の愛と哀しみが深く刻まれています。

 

智恵子自身も芸術家を志していた女性でした。女子美術学校(現・女子美術大学)で学び、洋画に興味を持った彼女は、親の反対を押し切って東京に留まり、太平洋画会研究所で本格的に絵を学びます。雑誌『青鞜』の表紙絵も描き、その才気は多くの人々の目にとまりました。現在も、彼女の作品は多く残されており、以下のような貴重な油彩画も鑑賞することができます。

  高村智恵子『樟』(1913年)清春白樺美術館(リンク)


智恵子の夫の高村光太郎は、日本の近現代を代表する詩人・歌人・彫刻家・画家であり、著作には評論や随筆、短歌もあり、能書家としても知られています。万能といって良いほどの才能に恵まれ、多岐にわたる分野で著名な作品を数多く残しています。

 

 この光太郎の父が、明治を代表する彫刻家で、西郷隆盛像や木彫『老猿』などの作品で知られる高村光雲です。長男の光太郎は、若い頃に欧米に留学していて、帰国後、旧態依然とした日本美術界に不満を持ち、ことごとに父に反抗し東京美術学校の教職も断ったそうです。親子、特にどちらも際立った才能がある父と子では、どうしても世代間の対立という構図になってしまうのでしょう。

 

ところで、光太郎の父の高村光雲は『幕末維新懐古談』という、江戸末期から明治維新にかけて、江戸市中に住んでいた一般庶民(光雲)の目から見た、その頃の江戸市中の様子を、詳しく書き残しています。

 

 これを読むと、高村光雲が彫刻家になったのは、全くの偶然というか、それこそちょっとした「縁」によるものだった、というのが良く分かります。元々高村家の祖先は鳥取藩士でしたが、光雲の4代前の先祖が江戸で町民になっていました。このため、光雲は江戸下谷(現・台東区)に町人・兼吉の子として生まれ、十二歳の春に、八丁堀の大工棟梁の下へ奉公に行く予定でした。

 

しかし、たまたまその前日に近くの床屋に行き、その床屋が世話好きだったことから、突如運命が変わってしまう事になります。本人も、懐古談の中で、次のように述べています。

【・・・ちょうど私の十二歳の春、文久三年三月十日のことですが、妙なことが縁となって、大工になるはずの処が彫刻の方へ道を換えましたような訳で、私の一生の運命がマアこの安さんの口入れで決まったようなことになったのです。】

 

幕末維新懐古談『安床の「安さん」の事』(リンク)

  

本来なら大工になっていたかもしれない光雲が、彫刻の道で後に東京美術学校(今の東京芸術大学)教授になり、皇居前に建つ楠木正成像の馬の原型を作ることになる――そんな偶然の積み重ねが、やがては智恵子や光太郎の人生にもつながっていきます。「縁」、すなわち人の運命というものは、まったく予測のつかないものだと感じさせられます。

 

人生の道筋は、自ら選ぶように見えて、どこかでそっと導かれているのかもしれません。智恵子の詩、歌、彼女を見つめ続けた光太郎の詩、そしてその背景にある人生の綾を思うとき、ふと、そんなことを感じさせられます。

 

<参考文献>

青空文庫 『幕末維新懐古談(03)安床の「安さん」の事』 高村光雲 著

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