昭和51年(1976年)にリリースされた『夕焼け雲』。当時は、地方から大都会へと夢を抱いて旅立った若者たちの、郷愁を描いた楽曲が数多く生まれていました。この曲も、そうした時代の空気を背景に生まれた一曲です。
しかし今の時代、「帰りたいけど帰れない」という歌詞に強く共感できる人は、少なくなっているかもしれません。この「帰れない理由」は、おそらく「功成り名遂げるまでは帰れない」という思いからではないか――そんな気がしています。
例えば、かつて卒業式でよく歌われていた『仰げば尊し』には、「身を立て 名をあげ やよ励めよ」という一節があります。かつては「立身出世して、いずれ故郷へ錦を飾る」ことを目指して、都会へ出ていった若者が多くいたのです。
今では、そうした思いを抱いて地方を離れる人は少数派でしょう。地方での暮らしが豊かになったこと、テレビ等のメディアやネットの発達で、都会と地方の情報格差が小さくなった事、などが背景にあるのかもしれません。
この歌に登場する故郷の町は、特定の場所ではなく、どこか普遍的な「地方都市」をイメージしているようにも思えます。とはいえ、作詞者・横井弘氏の心には、モデルとなる風景があったのではないでしょうか。
例えば「二人の家の 白壁が ならんで浮かぶ 堀の水」という一節。ここからは、古い城下町の風景が想起されます。白壁と堀のある町並み………日本全国に城下町は多くありますが、その中でも情緒ある景観を今に残している町は限られます。
思い浮かぶのは、津和野(島根県)、倉敷(岡山県)、犬山(愛知県)、角館(秋田県)、高岡(富山県)、川越(埼玉県)、松本(長野県)、会津若松(福島県)などでしょうか。
また、作詞者の横井氏は東京出身ですが、終戦後の復員時、知人を頼って長野県下諏訪町に家族で移り住んだ経歴があります。この下諏訪町や隣接する岡谷市には、白壁の残る歴史的な家屋が今も点在し、かつては堀もあったといいます。
さらに歌詞には、「杏(あんず)の幹に 残る町」という印象的な言葉も登場します。杏の木が多く育つ地域といえば、長野県や青森県が挙げられます。特に長野県は、杏の産地として知られています。
こうした点から考えると、この歌の風景のモデルは、横井氏が暮らした長野県・下諏訪町であった可能性が高いのではないかと思われます。中山道と甲州街道が交差するこの町は、かつて宿場町として栄え、今もなお白壁の町並みが残されています。
この歌の主人公は、下諏訪町の旧家に育ち、心を寄せていた隣家の少女に「いつか一旗揚げて帰ってくる」と誓って都会へ旅立ったのでしょう。
しかし現実は思うようにはいかず、故郷に顔向けできないまま、時間だけが流れていった……そんな物語が浮かびます。
メールやSNSが当たり前となった現代では、こうした状況そのものが、共感を得にくくなっているのかもしれません。その一方で、この曲は、高度成長期に海外赴任していた企業戦士たちの間では、特に人気があったとも言われています。
海外で長期駐留し、ふと故郷に思いを馳せたとき、歌詞も覚えやすく親しみ易いこの歌が、心にしみ入ったのでしょう。「帰りたいけど帰れない」という歌詞の一節も、海外赴任中の人達にとっては、非常に共感を呼ぶものだったと思います。
また、時代や場所を問わず、老年期を迎えた人々の多くが、「もう帰れない場所」を持っています。幼少期を過ごした家は今や失われ、あるいは他人が住む場所になっている――そんな現実に直面している人も、たくさん居られる事でしょう。その場所は正に、誰もが心の中に抱いている「帰りたいけど帰れない」、という光景そのものではないでしょうか。
夕焼けに染まる雲の下、かつて愛した風景、家、その頃一緒に過ごしていた家族、友人。それらを回想しながら、この『夕焼け雲』の美しいメロディを聴くと、二木楽団による情感豊かな演奏が、郷愁の想いと共に、より深く心に染み入ってくるように思います。
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