昭和26年(1951年)に発表された歌謡曲『白いランプの灯る道』。奈良光枝さんのしっとりとした歌声にのせて、霧降る夜道を肩寄せて歩く二人の情景が描かれたこの歌には、当時の人々の心に寄り添う温もりが込められています。
今回はこの楽曲を手がかりに、戦後まもない頃の街灯事情や「ランプ」という言葉が持つ詩的な響き、そして奈良光枝さんをめぐる小さなエピソードをご紹介してみたいと思います。
昭和26年(1951年)1月に発売されたこの曲は、奈良光枝さんによって歌われました。しっとりとした旋律にのせて、霧降る中、白いランプが灯る敷石の道を肩寄せて歩く二人の姿が、聴く人の胸に静かに浮かび上がってきます。
さて、この歌の舞台となっている場所は、いったいどこなのでしょうか。歌詞に「遠い汽笛に 夜が更ける」とあることから、港町の情景が想像されます。また、敷石の道の傍には銀杏並木が続いているようですが、それ以上の手がかりは歌詞の中には見当たりません。
作曲を手がけた古関裕而は、かつて鎌倉市大船にある映画撮影所で、夜間の録音作業を行っていたことがあり、「撮影所近くからスタジオまで白い道が続いている。夜、その道の淋しい静けさからこのメロディが生まれました」と語っています。一方で、作詞を担当した丘灯至夫が具体的にどの場所を念頭に置いていたかについては、記録が残っておらず、詳細は分かりませんでした。
話は少し変わりますが、この歌のタイトルに登場する「ランプ」という言葉について、少し触れてみたいと思います。
私が子供だった頃は、たまに停電になることがありました。その際には「ろうそく式のランプ」を灯して過ごした記憶があります。透明なガラス越しに灯るろうそくの光は意外に明るく、見慣れた室内の風景がどこか幻想的に映り、なんとなく嬉しい気持ちになったのを覚えています。
しかし、よく考えてみると、この歌が流行した昭和26年当時、実際に歩道を照らすのに未だランプ(ガス灯や石油灯)が使われていたのかどうか、ふと疑問が湧いてきました。
そこで当時の状況を調べてみたところ、昭和初期にはガス灯はすでに姿を消し、都市部では電灯が主流となっていました。戦中は空襲による灯火管制や物資不足のため照明は制限されましたが、昭和20年代後半には復興が進み、電気の供給も徐々に安定していきます。特に昭和25年(1950年)から始まった朝鮮戦争による特需景気の影響で、都市インフラの整備は一層進展しました。
この頃、東京や大阪などの都市部では、すでに歩道灯は電気式が基本となっており、例えば「三球スズラン灯」と呼ばれる、白熱電球を3つ笠付きで設置した高級感のある街灯が導入され始めていました。
また、当時は「電灯」のことを「ランプ」と呼ぶ言い方も、まだ広く残っていました。特に年配の人々や地方では、そうした呼称が日常的に使われていたようです。
したがって、「白いランプの灯る道」という表現は、技術的な正確さを追求したものではなく、詩的・情緒的な意味合いを持った言葉と見るのが自然でしょう。柔らかく灯る白熱電球の光を「白いランプ」と詠むことで、清らかさや希望、さらには戦後復興の象徴といったイメージを、聴く者の心に呼び起こそうとしたのではないでしょうか。
実際、情景として思い浮かべたとき、現実的な電気式街灯よりも「白いランプ」が灯る道のほうが、はるかに抒情的な雰囲気を醸し出します。ランプという言葉には、どこか懐かしく、やさしく、そして温かみのある響きが宿っているのです。
なお、この歌を歌った奈良光枝さんは、青森県弘前で育ち、美しい容姿と歌声で知られていました。彼女が引退後、再びその名が注目された出来事があります。1974年(昭和49年)、終戦から29年の時を経て、フィリピン・ルバング島から帰還した情報将校・小野田寛郎少尉が、帰国後のインタビューで「好みの女性は?」と尋ねられた際、「奈良光枝さん」と答えたのです。
この一言によって、彼女の名は一時的に再び脚光を浴びることとなりましたが、その2年後には病に伏し、翌年、惜しまれつつ世を去りました。
『白いランプの灯る道』――この歌は、「ランプ」という言葉がもたらすノスタルジックな余韻と、銀杏並木が続く敷石道を肩寄せて歩く二人の静かな情景、そして、奈良光枝さんのしっとりとした歌声が重なって、聴く者の心に深く染み入り、今もなお、忘れがたい余韻を残しています。
<<参考音源>>
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