昭和初期の尋常小学校で歌われていた唱歌『田舎の冬』は、美しく懐かしい歌詞と、心に沁みるメロディを持つ一曲です。しかし、その歌詞をあらためて読んでみると、今の私たち、特に都会に暮らす現代人にとっては、意味がすぐには分からない言葉も少なくありません。私自身も、上記リンク先の解説を読んで、ようやく理解できた箇所がいくつもありました。
考えてみれば、当時の子供たちにとっても、この歌詞のすべてを理解していたとは思えません。それでも、学校ではこうした歌を当たり前のように教えていたのです。現在の小学校では、子供にも分かりやすい平易な言葉を使った歌や教材が重視されているようです。
一方、昔の教育では、子供がその時点で意味を理解できるかどうかには、あまり重きを置いていなかったように思います。これは一見、不親切な教育に見えるかもしれませんが、「いずれ大きくなれば分かる」という、長い目で見た考え方があったのでしょう。
その好例が、江戸時代の武士階級における「漢籍の素読」です。
『論語』『大学』『中庸』『孟子』といった中国古典を、子どもたちは意味も分からぬまま、先生の声にあわせて繰り返し復唱していました。
例えば、以下のような一節があります。
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・原文
子曰、「歳寒然後知松柏之後彫也」
・読み下し:
子曰く、『歳寒くして、然る後に松柏の 彫むに後るるを知るなり』
(しいわく としさむくして しかるのちに しょうはくの
しぼむに おくるるを しるなり)と。
・現代語訳:
「松や柏のような常緑の木は、春や夏にはあまり目立たないが、
寒さの厳しい冬になって、その葉が落ちずに残ることから、
初めてその真価がわかる」
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意味の理解は後回しで、まずは音として口に出し、身体にしみこませるように記憶する――このような素読は、言葉のリズムや格調を自然と身につける訓練でもあったのです。
興味深いことに、こうした「理解よりもまず暗記」という学習法は、かつてのヨーロッパでも見られました。たとえばイギリスの古典教育では、子どもに聖書やシェイクスピアの一節を暗誦させていました。漢籍が聖書に、素読が朗唱に置き換わっただけで、方法そのものはとてもよく似ています。
こうした教育方法は、すべての子供に合うとは限らず、場合によっては弊害もあるかもしれません。しかし、「子供には大きな可能性がある」という前提に立てば、たとえ意味が分からなくても、良質な言葉や表現に触れさせることは、決して無駄にはならないと私は思います。
たとえば、名演奏を幼い頃から繰り返し聴かせて育てれば、その価値に感動できる感受性が育つように、名文を復唱することで、後年ふとしたときにその意味に気づき、自分の指針となることもあるでしょう。
このように考えると、私達が意味もよく分からず外国語の歌を口ずさむのも、実は似たような体験かもしれません。例えばビートルズの歌を歌う日本人が、必ずしも英語に堪能とは限らず、歌詞の意味を完全に理解しているとも言えません。しかし、それでも歌を通じて自然に英語の音やリズムに親しむことはできるのです。
つまり、「まずは体で覚える」「耳で慣れる」という学習は、言語教育において今も昔も変わらない、人間の本質に根ざした方法のように思えてなりません。子供の頃に記憶した言葉というのは、案外一生覚えているものです。しかも難しい言葉であればあるほど、一度しっかり覚えてしまえば、むしろ忘れにくい傾向があります。
そう考えると、たとえその場では意味が分からなかったとしても、後からじわじわと効いてくる、言葉の「種まき」のような教育は、今こそ見直されてもよいのではないでしょうか。
『田舎の冬』という唱歌は、今ではほとんど耳にすることのない曲になってしまいましたが、その歌詞には、かつての日本の農村風景と、そこに生きた人々の生活が織り込まれています。歌詞の難しさに戸惑いながらも、その背後にある世界を想像し、感じ取ることができたなら、それこそが言葉の学びの醍醐味なのかもしれません。
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