「さだまさし」の多くの歌の中で、私が一曲だけ選ぶとすれば、迷わず『無縁坂』を挙げます。この坂の名前に似合った、もの寂しい物語と、それに相応しい静かで胸に響くメロディが相まって、強く印象に残ります。
特に「忍ぶ不忍(しのばず)無縁坂~」から始まる最終節の、いわゆるサビ部分は、前段での不協和音効果もあり感動的なフィナーレになっていて、心が揺さぶられます。
『無縁坂』は東京台東区池之端にある、ひっそりとした坂道で、坂を下ったところには上野の不忍池(しのばずのいけ)があり、その先にある上野の山を越えると上野駅です。この歌では、年老いた母が若かった頃、幼い我が子の手を引き、その急峻な無縁坂を登っていた頃を回想し、その母の歩んできた、不遇で苦労多く幸(さち)少なかった人生を思いやっています。
自分の母が老いたことに気付く瞬間を描写した詩や歌は、他にも多く見かけますが、良く知られているのは、石川啄木の下記短歌でしょう。
【たはむれに 母を背負ひて そのあまり 軽きに泣きて 三歩あゆまず】
『一握の砂』という、啄木の歌集に収められた一句です。
【この歌の母は、まだ自分の足で歩ける年齢でしたが、啄木が病床の母を冗談半分に背負ってみたところ、その軽さにはじめて気付き、涙をこぼしてしまった】という、老いに対する悔いと悲しみが込められています。
ところで、ここで歌われている母親の年齢は何歳ぐらいだったのでしょう。この歌の通りに、実際に啄木が母を背負ったことがあったのかは判然としませんが、母「かつ」は弘化4年(1847年)生まれで、啄木との年齢差は39歳だったようです。
この歌ができたのは啄木が22歳頃というのが定説なので、それからすると、その時母親は61歳だったことになります。今の感覚からすると、まだまだ若い年齢なのですが、当時では相当年老いたように周りから思われる年齢だったのでしょう。
一方、表題の『無縁坂』は、不遇だった自分の母親のことを大人になってから想い起すという設定の歌ですが、さだまさし自身の幼い頃と、その母親を描いているのだとすると、実際の年齢や家族構成との間で矛盾があります。このため『無縁坂』の歌詞は、さだまさし自身の実体験ではなく、創作による物語であると考えられます。
調べてみると、この歌は、さだまさしが学生時代に書いた未発表の小説の冒頭をもとに作られたとされています。その小説では、「坂の上に父親の家があった」という筋立てがあり、母親が幼い子供とともに坂道を登り、父親の家に向かう情景が描かれていたようです。
私は大阪育ちですが、大阪も名前の通り坂の多い町です。とりわけ中心部の大阪市内は上町台地という高台に添って発展してきているので、当然その台地の端部は坂になっていて、有名な坂が数多く有ります。
たとえば、源聖寺坂(げんしょうじざか)や口縄坂(くちなわざか)など、どこか懐かしさを感じる名前や雰囲気を持つ坂道が多く存在します。その坂を登り詰めた高台一帯は「夕陽丘(ゆうひがおか)」とよばれ、その名の通り、夕暮れ時の景色がとても美しく、古い町並みと相まって、時間がゆっくりと流れるような錯覚を覚えます。
源聖寺坂は花崗岩でできた石畳の広い階段が続き、両側に土壁の塀が添っていて趣があります。この坂の石段を上りきった場所には古来からの生國魂神社(いくたまじんじゃ)が鎮座し、江戸時代には茶屋や芝居小屋が立ち並ぶ繁華で雑多な場所だったのですが、一方でこの一角は、昔も今も日本で最もお寺が集中して建っている場所でもあります。聖徳太子ゆかりの四天王寺はじめ、大小合わせて200近い寺が集まっていると言われています。
秀吉の時代が、この辺りの寺町形成起源ですが、それから、はるかに時代が変遷しているにも関わらず、こうした場所では、今も寺が数多く残っていて、戦国歴史の痕跡が、今も命脈を受け継いでいる様子が伺えます。
ところで、リンク先《蛇足》コメントの中で、サイト管理人さんが、「坂道」について、次のように書かれています。
【坂を登り切ったところで事件が起こりそうな、不安とも期待ともつかないドキドキ感、快調に足を運んでいるうちに、一種の軽躁感が生じます】・・・と。
確かに、その坂が長く急峻であればあるほど、登り切った後、長距離ランナーのランナーズハイに似た爽快感、軽い幸福感を感じることがあります。
この「無縁坂」の歌の主人公である母親も、幼い我が子の手を引きながら無縁坂を登っていて、急勾配で長いこの坂を登り詰めれば、何か明るい未来が開けるのではないか、何となくそういう事を感じていたように思えます。
ちなみに、この歌の最後では、【~忍ぶ 不忍(しのばず)無縁坂 かみしめるような ささやかな僕の母の人生】と歌われています。
辞書で「ささやかな」の意味を確認すると、「小ぢんまりと目立たない、小さくて取るに足らない、つまらない、・・・」と言った否定的な言葉が並んでいます。
しかし、この母親の人生が本当に取るに足らない、つまらないものだったのかは、本人にしか分からない事でしょう。誰に知られることもなく、傍目にはつまらない人生のように見られていたとしても、本人にとっては、小さな幸せを積み重ねた、かけがえのない人生だったのかもしれません。
逆に、世の中を変えるような大きな仕事をしたように見える人の人生も、長い目でみると、後の世の人から「結局はつまらない事にあくせくしていただけの人だった」と言われるのかも知れません。
人生は、目立つことばかりが価値ではありません。誰かのために汗を流し、祈り、見送る。その繰り返しの中で、私たちは少しずつ何かを得て、何かを手放していきます。
私も、自分なりの「無縁坂」をかみしめながら、これからもゆっくりと登っていきたいと思います。
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