2025-07-19

青葉の笛(須磨寺探訪と、古典や歴史に寄せる想い)

 青葉の笛(リンク)

 数年前の秋、兵庫県南部の白砂青松「須磨の浦」に近い、須磨寺を訪れたことがあります。須磨寺は、表題曲主役である平敦盛が愛用したと伝えられる『青葉の笛』が現存しているお寺です。須磨海岸の直ぐ傍を走るJR須磨駅で下車し、駅裏の静かな秋の砂浜海岸をしばし散策した後、徒歩で須磨寺へ向かいました。


予定では徒歩15分ほどの道のりでしたが、道に迷って30分ほどかかってしまいました。ようやく辿り着いた参道の、終点にある赤い龍華橋を渡ると、運慶・湛慶作と伝わる、迫力ある力士像が迎えてくれました。

 

 訪れる前は、須磨寺をもっと素朴な佇まいをもつお寺のように想像していたのですが、実際には真言宗須磨寺派の本山だけあり、広大な敷地を持つ大寺院でした。境内には、源平一の谷合戦の様子を石像で再現した「源平の庭」などもあり、歴史的な雰囲気に満ちています。目的の『青葉の笛』は宝物館の中に展示されていました。

 

驚いたことに、この宝物館は無料で自由に入館でき、監視員らしき人も見当たりません。警備面で少し心配になるほどですが、肝心の『青葉の笛』はガラスケースに丁重に納められていました。来館者は疎らで、ゆっくりと笛の姿を観察することができました。笛には時代の重みを感じさせる縦割れがいくつも見られましたが、淡い肌色(ベージュ色)で古色を帯び、その存在感には静かな感動を覚えました。

 

 言い伝えによれば、この笛は「弘法大師が唐(中国)へ留学していた時、長安の青龍寺で、特別な竹(天笠の竹)を使って作ったものとされ、帰国後に嵯峨天皇に献上された後、平家に伝わり、平敦盛が手にした」とされています。本来なら、重要文化財になっていてもよいと思うのですが、そうなっていないのは、「平敦盛が秘蔵していた笛だ」という確かな証し(あかし)に乏しいためなのでしょう。

 

 この童謡には、『敦盛(あつもり)と忠度(ただのり)』という副題があり、歌詞には2つのエピソードが描かれています。第一番は、一ノ谷の戦いで、源氏の武将・熊谷次郎直実が、自分の息子と同じ年頃の若武者・平敦盛を、討ち取らざるを得なかったという、悲しい運命の場面です。笛の名手だった敦盛が最後まで身につけていたのが、今も須磨寺に残る「青葉の笛」だと伝えられています。

  

第二番は、平清盛の弟で、文武両道に優れ歌人としても知られていた平忠度(ただのり)が主人公です。平家都落ちの最中、深夜ひそかに京都に戻り、歌の師である藤原俊成のもとを訪れ、自作の和歌を託したとされています。忠度が一の谷で討たれた際、箙(えびら=矢入れ)の中から見つかったのが、あの有名な歌(通称「花や今宵」)でした。


【行き暮れて 木の下蔭を宿とせば 花や今宵の主(あるじ)ならまし】


明日の戦(いくさ)で恐らく自分は死ぬと分かっている過酷な状況の中で、その前夜に、勅撰和歌集選者であり、歌の師である藤原俊成に自作の歌を託したという、忠度の想いは、時代を超えて今の我々にもよく理解できます。やはり自分が生きたという証(あかし)を、後の世に残したかったのでしょう。

 

 この『青葉の笛』の歌詞の背景には『平家物語』の逸話が色濃く反映されています。この平家物語は、今では古典と言われる部類の書物になりますが、最近、『学校での古典授業は無駄なので廃止すべき』という意見がネット上で散見され、一部著名人も含めこれに賛同する人が多いようです。

 

「古典の授業が無駄」という御意見の方の論旨を読むと、「これまでの人生で、未だに古典が役に立ったなと思ったことが1回もない」、「古典の授業時間を削って、有益な外国語授業にもっと時間をとるべき」といった点に、その主張が集約されるようです。

 

 普通に暮らしている場合、古典の知識は確かにいらないし、無駄だと感じられる気持ちもよく理解できます。しかし、それを言い出したら数学のサイン・コサインも普通の人が日常生活で活用することは無いので無駄、美術や音楽が無くても生活できるので無駄・・・

つまり、学校で習うたいていのものは無駄になってしまいます。

 

特に歴史の授業などは過ぎ去った過去のことを覚えるだけなので無駄、と考える人が多いかもしれません。これには歴史を学ぶ目的を、歴史授業の最初に明確に教えていないことが影響している気がします。誰もが、自分がこれまで実際に経験してきた数々の失敗や成功の出来事を振り返りながら、それらを拠り所にして日々新たに発生する事態に対処しているはずですが、歴史学習というのもこれと同じです。

 

そもそも歴史というのは、これからの(未来に向けての)「道しるべ」とすべきものです。今の世の中は変遷が目まぐるしく、これからどうなっていくのか全く分かりません。何か岐路に立たされた時、正しい判断をする際の「道しるべ」となるのものが必要ですが、過去の長い歴史を紐解いてみれば、その困難な状況と非常に似た立場に合った国や人が必ず見つかるはずです。

 

今現在、発生している問題というのは、これから下そうとしている判断や対処方法が正しいのか、間違っているのかが不明な訳ですが、過去の歴史上の類似ケースでは、既に明確な答えが出ているわけです。従って、これを有効に活用しない手はありません。つまり歴史を知ることによって、今後の類似予測が可能になる訳です。

 

言うなれば、大きな事件が発生した時、裁判官が過去の「判例」を調査して、それを参考にして新たな事件の処分を下しているのと同じで、これから下さなければならない判断や対処方法の「妥当性の足場」を過去の歴史から確かなものにする事ができます。歴史学習とは、まさに「人類の経験則を学ぶこと」と言えると思います。

 

古典の学習も同じで、ただ過去の他人の物語として読むのではなく、ほこりを被ったように見える古典を現代のテキストとして、自分自身の問題に引きつけてその文章を読み直すことで、時の隔たりが一挙に縮まる感覚を持つことが出来るはずです。

 

古典や歴史は、実生活に直ぐ役立つようなものではないので、学習のコスパが悪いと感じられるのは無理もありませんが、かといってそういったものを切り捨てて良いという事にはなりません。先行きが不透明で不安だらけの今の世の中を生きていくためには、精神的な支柱となるものが必要ですが、その一つが古典や歴史だと思っています。

どんなに時代が変わっても、「人間の本質」はそれほど変わりません。だからこそ、古典に描かれた人の葛藤や選択は、私たち自身の悩みや決断と重なる部分があるのです。

 

また、実生活で直接役に立たないからといって、「無駄」と決めつけてしまうことは、人生の豊かさを狭めてしまうように思います。無駄を重ねることにより、それがやがて熟成され、人間力つまりは温かい心を持てる人間に成長できます。無駄なことに熱中することで人生が豊かになるという事もあるわけです。

 

短絡的な考えで無駄と思える授業を排除していくと、効率やコスパのみ追い求める、奥行きの無い人間を育てる事になってしまいそうな気がします。無駄なことに情熱を注ぐことで、人の心は豊かになり、温かみを帯びた人間に成長できるのではないでしょうか。


「今すぐ直接的に役立つかどうか」だけで価値を測るのではなく、人生を深く味わうための「精神の支柱」として、古典や歴史は今も私たちに必要なものだと思うのです。

 

『青葉の笛』の歌から、話が少し逸れ過ぎてしまいました。リンク先のクロスロード・レディース・アンサンブルによる、程よく抑制された歌唱とハーモニーは本当に素晴らしいです。また、この曲の演奏で吹かれている笛の音は格別で、聴き惚れてしまいますが、どのような笛が使われているのでしょう。


青葉の笛は、龍笛と云われる横笛の一種ですが、この演奏で使われているのは篠笛のような気がします。名笛小枝(さえだ)と呼ばれた”青葉の笛”もこのような美しい音色を奏でていたのでしょうか・・・。

 

 

♪『青葉の笛』歌詞(明治39年/1906年発表)

作詞:大和田建樹 作曲:田村虎蔵

 

1 一の谷の軍(いくさ)破れ

  討たれし平家の公達(きんだち)あわれ

  暁寒き須磨(すま)の嵐に

  聞こえしはこれか 青葉の笛

 

2 更くる夜半に門(かど)を敲(たた)き

  わが師に託せし言(こと)の葉あわれ

  今わの際(きわ)まで持ちし箙(えびら)に

  残れるは「花や今宵」の歌

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