2025-07-19

古城(歴史的遺跡に想いを寄せた希少な歌)

 古城(リンク)

 流行歌の多くは男女の恋愛を主題としていますが、この歌のように歴史的遺跡に想いを寄せた歌は希少です。有名な『荒城の月』のオマージュとも言われていますが、「松風さわぐ丘の上・・・」で始まる歌詞は流行歌とは思えぬほど格調高く、優しく哀調を帯びた旋律も心に響きます。 

 

 日本にある城や城跡の数は、かっては4万~5万あったと言われていますが、現在見学できるのは200程度です。この中で圧倒的に多いのが、石垣や堀や土塁など、遺構だけが残る「城跡」で、天守閣を残す城は12城にすぎません。現存12天守は、姫路城、松本城、彦根城、丸岡城、弘前城、備中松山城、丸亀城、松山城、宇和島城、高知城などで、何度も修復されながら現在まで残っています。

 

表題曲は特定の城をイメージしたものではないようですが、モデルにした城として有力なのは、能登半島にある七尾城のようです。約170年間栄えた、能登の守護・畠山氏によって築かれた山岳城跡です。 険しい山岳部を巧みに利用し、難攻不落といわれた山城ですが、上杉謙信によって陥落されました。七尾という名前自体が「七つの尾根」を由来としていて、急峻なその尾根から枝分かれする幾筋もの大小の尾根に、無数の砦を配置した大規模な山城だったと、伝えられています。

 

 能登半島の付け根近くにある七尾城は、自分には縁遠い城のように思っていましたが、先日自宅近くの成田山大阪別院の境内を散策中、本堂近くに畠山義豊という人物の墓所があることに気付きました。


七尾城領主だった畠山氏は能登畠山といって畠山家の傍流ですが、総本家の畠山は河内の守護で、畠山義豊はその本流畠山家の当主だった人物です。(能登の守護、畠山政国とは兄弟関係)。同族内の争いで今の墓所近くで討ち死にしていますが、この畠山氏をめぐる内乱が、戦国時代の始まりとされる応仁の乱に繋がっていくことになります。

 

このように、古代から歴史の中心だった奈良(大和)や京都に近い近畿地方では、その気になれば、いくらでも身近にその痕跡を見出すことができます。表題曲に歌われている城跡もそうですが、こうした場所に立った時に誰もが感じるのは、世の中の栄枯盛衰についての感慨でしょう。


全ての人や物事は常に変化し、繁栄は続かず何れは滅びます。城址や城跡は、最後に落城という悲劇を伴っている所がほとんどですから、その場所に立ち、その時の兵士やその家族たちの心情に想い寄せると、一層感慨深いものがあります。

 

 今、そこに城が有る(有った)という事は、遠い昔に必ずそこには人がいて、人が立って、そして色んな出来事が行われた。武士達が武器を取り、夢や野望をいだいて戦い、確かに生きて、そして死んでいった、その跡だという事です。

 

こうした光景を読んだ詩で有名なのが、唐の詩人・杜甫が安史の乱(安禄山の乱)のさなかの757年春に長安で詠んだ五言律詩『春望』で、冒頭の「国破れて山河在り」という句で、つとに知られています。

 

【春望】杜甫

国破山河在      (国破れて山河在り)

城春草木深      (城春にして草木深し)

感時花濺涙      (時に感じては花にも涙を濺ぎ)

恨別鳥驚心      (別れを恨んでは鳥にも心を驚かす)

烽火連三月      (烽火 三月に連なり)

家書抵万金      (家書 万金に抵る)

白頭掻更短      (白頭 掻けば更に短く)

渾欲不勝簪      (渾て簪に勝えざらんと欲す)

 

 「春望」とは、春の眺めという意味ですが、この詩の大意は次のように解釈されます。

【国の都の長安は戦争で破壊されてしまったが、自然の姿は昔のままである。

町にも春が来て、草木は深く生い茂っている。

このような戦乱の時世を思えば、花を見ても涙が落ちる。

家族との別れを悲しんでは、鳥の鳴き声を聞いても心が痛む。

戦乱の、のろし火は、もう何ヶ月も続いていて、

家族からの手紙は万金にも値する

白髪頭を掻けば、髪は更に薄くなって、

簪(かんざし)も挿せなくなりそうだ。】

 

五言律詩の代表格のような唐時代の名詩です。盤石だと思っていた唐王朝が破壊されてしまうという、杜甫にとっては驚天動地の出来事があったのに、山や川は昔と変わらないという感慨が、ひしひしと感じ取れます。

このような光景は、人類の歴史が始まって以来、洋の東西を問わず、数えきれないほど見られ、それは今現在も続いています。ウクライナでは未だ戦争の真っ只中にあり、このような想いにふける余裕もないと思いますが、何れは、その場所に立ち同じような感慨を抱く人が出てくることでしょう。


  ところで、記憶に残る印象的な「古城」は、人それぞれで異なると思いますが、私にとっての古城というと、安土城になります。祖父の出身地が琵琶湖東岸の安土なのですが、祖父の生家跡の直ぐ近くに、幻の城と呼ばれる織田信長築城の安土城跡があります。城は急峻な小高い山の上に築かれていて、夏場に息をきらしてたどりついたその頂上には、天守跡だけで何もありませんでした。しかし自分の先祖の方が、築城当時この名城の栄枯盛衰を目の当たりにしていたのかと想像すると、感慨深いものがありました。


 ただ、こうした有名な城だけでなく、名もない山城を思い浮かべる人も多いと思います。山道をたどると、崩れたような低い石垣が残るのみで、木の繁りと雑草がおびただしく、説明板を読まないと、そこが城跡と分からないような所も多々あります。

 

 日本の城というのは、山全体を城郭とした山城が多く、山を削って土を盛り固めて造った土塁で、四方を囲んで防御していました。岐阜の苗木城のように、山全体が巨大な花崗岩で形成された場所に立つ山城も有りましたが、本格的な石垣が使われていた城は少なく、また規模的にも砦のような比較的小さな城が多かったようです。

 

 一方、ヨーロッパの城跡は、城塞という言葉通り街全体を分厚い石組みの城壁で囲んだ巨大な要塞が多く、その圧倒的な石壁での防御力は驚異的でした。塩野七生の『ロードス島攻防記』に描かれた世界は、実際の歴史的事実にほぼ基づいています。

エーゲ海にある「ロードス島」は全長80kmほどの小さな島ですが、そこにフランス、スペイン、ドイツなどヨーロッパの8つの国の騎士たちが集結していました。その目的は、ヨーロッパのキリスト教社会をイスラム勢力から守ることで、ロードス島はその最前線に位置していました。

 

ロードス島に駐留していた兵士たちは、カトリックの軍事組織「聖ヨハネ騎士団」と呼ばれていましたが、1,522年そこに今のトルコ側から、10万以上のオスマン帝国軍が押し寄せました。それを城塞にいる2,000人ほどの聖ヨハネ騎士団が守るという戦いの構図になりました。この圧倒的な戦力差にも関わらず、5カ月間持ち堪えたようですが、ついに城壁を突破され騎士団は壊滅しています。

 

 歴史的遺物には、その当時の人々の魂の記憶が息づいているように感じられることがありますが、特に落城という悲劇を伴った城跡に立つとその想いがより顕著になります。かつての栄華を物語る遺構に立つとき、私たちは過去の人々の歩みと想いを感じます。

 

1968年に公開されたアメリカ映画『猿の惑星』では、人類文明が崩壊した後の地球の姿が描かれていましたが、特にラストシーンは衝撃的でした。現在の我々が、古代ローマの競技場跡に立った時に感じるのと同じような想いを、未来の人達は、甲子園球場跡に立って抱くように成るのかもしれません。未来の誰かが、我々の文明を「失われた遺跡」として見つめることがないよう、願わずにはいられません。

 

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