昭和22年(1947)8月に公開された映画『誰か夢なき』の主題歌として作られたこの曲は、ノスタルジーを感じさせる、美しいメロディが印象的な名曲です。
リンク先のコメント欄には、『誰か夢無き』という言葉の意味について、「この時代を生きた人でなければ本当のところは分からないはず」との意見が寄せられています。確かに、この曲のタイトルの意味を厳密に解釈しようとすると、一筋縄ではいかないことに気づかされます。
最初、私はこのフレーズを「苦しく、希望の持てない憧れの気持ちを、誰か分かってくれる人がいるだろうか」という意味で解釈してみました。しかし、それだけではしっくりこず、もう少し広い視点で考える必要があるように思えました。
1番の歌詞では、「想いあふれて花を摘めば」 という表現から、切ない恋心や憧れの感情があふれ出る情景が描かれています。次に、「あざみ なぜなぜ 刺(とげ)持つ花か」 という部分は、愛や夢には痛み(とげ)が伴うものだという比喩でしょう。
そして、最後の「たとえささりょと ああ 誰か夢なき」 というフレーズ。これは、「たとえ傷つくとしても、それでも人は夢を持たずにはいられない」という意味に取ることができます。
文語的な表現として、「誰か○○なき」という形は反語的な用法と考えられます。つまり、「誰が夢を持たずにいられようか⇒夢が無い人なんているだろうか⇒いや、誰しも夢を見る」 という意味になるのではないでしょうか。この解釈を踏まえると、「夢を持つことで苦しみや痛みを伴うこともあるが、それでも夢を抱かずにはいられないのが人間の本質」というメッセージが、この歌の根底に流れているように思えます。
人は誰しも「こうしたい」「こうなりたい」と願うものです。それは「憧れ」と言い換えることもできるでしょう。しかし、現実には、その憧れがそのまま叶うことは稀です。人生も同じで、若い頃に描いた夢は、まるで空に浮かぶ雲のように、手を伸ばしても掴めないものがほとんどで、実現せず消えてしまいます。「少年老い易く、学成り難し」 という言葉も、そのことを諭しているのでしょう。
しかし、昔から賢人たちは、夢を叶えるための方法を語り続けています。その答えを端的に言えば、「今日、今から具体的に歩みだす」 ということに尽きるのかもしれません。頭の中で夢を描くだけではなく、現実の一歩を踏み出すこと。それが『誰か夢なき』という言葉が示す、人間の本質なのだと思います。
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