2025-08-29

信濃恋歌(古代の移住が残した記憶)

 信濃恋歌(リンク)

 平成19年(2007年)にリリースされた『信濃恋歌』。私は最近までこの曲を知りませんでしたが、美しい歌詞と旋律を兼ね備えた、心に染み入る抒情歌です。その雰囲気は、戦後復興期に放送されていたラジオ歌謡のようで、どこか懐かしさを感じます。

 

 リンク先で聴けるインストゥルメンタル演奏は、川のせせらぎのように澄みきった調べで、原曲での歌唱版とは異なる印象を与えつつ、この曲が本来持っていた潜在的な魅力を見事に引き出しています。まるで、秘めていた才能が花開く瞬間に立ち会ったかのようです。


 歌詞では、信州信濃、特に安曇野(あずみの)地方の光景が描かれています。安曇野は現在の長野県中部、松本盆地の西側に広がる扇状地で、北アルプスを背に清流が流れる美しい地域です。


 今では【信濃】と聞いても、漠然とした地域のイメージしか浮かばない人が多いと思いますが、信濃は現在の長野県とほぼ近似です。江戸時代は「信濃国」と呼ばれ、それ以前の平安時代から江戸期にかけては「州」の名で呼ばれていました。信州、遠州、奥州などがその例です。


 今では地名の響きに郷愁を覚える人も少なくなりましたが、かつては歴史と文化の重みを感じさせる呼び名でした。 

 ⇒ <地方名・旧国名と都道府県名の対応表>(リンク)

 

 安曇野の地名の由来となったのが、海人族(あまぞく)の安曇氏(阿曇氏)です。もとは九州・志賀島を拠点としていたと伝えられています。

 なぜ「海の民」が山深い信濃へと移り住んだのか――そこには古代の大きな歴史的背景がありました。


 近年の研究では、6世紀以降蘇我氏の勢力拡大とともに、蘇我氏が東国に屯倉(みやけ:大和朝廷の直轄地)の設置を進める中で、蘇我氏と深い関係にあった安曇氏が信濃国の屯倉に派遣され、地域との関係を深めた結果、安曇部が設置されたとされています。

 

 今も穂高神社で毎年行われる「御船祭」は、安曇氏が海人族であった記憶を伝える祭礼とされています。移住の地で一族が団結し、困難を乗り越えた証といえるでしょう。古代の移住がただの史実ではなく、今も地域の文化や信仰の中に生き続けていることを物語っています。


 このような発展的な移住ではなく、やむなく移住させられることの方が、実際には多かったかもしれません。

 何時の時代でも、戦(いくさ)で負けたり、領主が何か大きな失策を起こすと、時の権力者から国替えを命じられ、主君と共に家臣の一族郎党が、それまでより劣悪な、他の土地へ移る事を余儀なくされています。

 その時、その家族たちは本当に大変だった事でしょう。


 大規模な強制移住は、歴史の中で繰り返されてきました。戦国時代、九鬼水軍で名高かった伊勢志摩の領主「九鬼氏」は、江戸時代に入り、その水軍力を恐れた徳川氏により、周りに海の無い内陸部に移封(国替え)されています。瀬戸内海の島々を本拠に、圧倒的な水軍力(村上水軍)を誇っていた伊予村上氏も同じでした。


 安曇氏も、天智天皇の時代には、朝鮮「白村江の戦い」に加わり、水軍としての力を誇っていたようです。それが内陸部への移住の一因だったのかは、分かっていません。


 明治初期には屯田兵による北海道開拓が行われ、そして近代ではブラジルやハワイなどへの村単位での海外移住もありました。背景には、自然災害や飢饉からの脱出という、切実な理由が大きかったようですが、集団で生活基盤を一から築くという、新天地への大きな挑戦でした。


 現在も、豊かな自然環境を求め、都市から地方へと生活の場を移す家族が増えています。ただ家族の間で、移住に対する熱意に温度差がある場合には、うまくいかないケースも多いようです。


 職場でも同じですが、組織の中で、特定メンバーだけが突出して強い想い(目標)を持っていても、それが他のメンバーに浸透していないと、その目標が達成される可能性は少なくなります。


 新しい土地で暮らすには、家族全員の意識の共有が欠かせません。それは、チームで大きな目標を成し遂げるために必要な「目的の一致」と同じことかもしれません。職場での目標達成と、家族移住の話はかけ離れているようですが、根本的な「成功の鍵」は同じだと思います。


 『信濃恋歌』の郷愁をさそうメロディを聴いていると、遠い昔にこの地で暮らした人々の姿まで浮かんでくるようです。

 そしていつしか、自分自身の遠い祖先へと想いが重なり、見知らぬその人たちへの感謝にも似た、不思議に懐かしい気持ちが胸に広がっていきます。


<<参考音源>> 

地元安曇野の愛好家Gr による『信濃恋唄』のコーラスです。(リンク)


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