誰もが一度は、大空を鳥のように自由に飛び回ることを、夢見たことがあるのではないでしょうか。ただ現実には、人間には翼がなく、自らの力で空を飛ぶことはできません。有史以来、私たちは空への憧れを捨てきれずに、ただ見上げ続けてきました。
こうした夢が、大空を飛ぶ「飛行機」を発明することに繋がっていった訳ですが、私自身も子どもの頃、ゴム動力の「竹ひご飛行機」を夢中で飛ばしていた記憶があります。何度も工夫を重ね、遠くまで飛ばせたときの達成感と喜びは、今でも鮮やかに記憶に残っています。
やがて本物の飛行機に乗る機会も増えましたが、それはあくまで決められた高度とコースをたどる旅でしかなく、自分の意志で自由に空を舞う、鳥のような感覚とは、どこか違っていました。
ところが近年、私たちの「空を自由に飛びたい」という夢に、少しだけ近づけてくれる道具が現れました。ドローン(UAV)です。高精細カメラを搭載したドローンが撮影する映像を、テレビの大画面で眺めていると、まるで自分が鳥になって空を飛んでいるような錯覚さえ覚えます。
NHK BS 放送でたまに放映される『空からクルージング』というテレビ番組があります。深夜時間帯に放映されることが多いため、私は録画しておき後で見ているのですが、この映像は本当に素晴らしいです。「ヨーロッパの城と宮殿」「イタリア・シチリア半島一周の旅」「フランス・ロワール川 空の旅」等、シリーズで今まで何度か放映されています。
城壁で囲まれた、宮殿内に聳え立つ尖塔の、直ぐ上からの近接映像など、普通の旅では決して見る事のできない視点からの映像が映し出されます。
よく「鳥の目/蟻の目」と言われますが、この番組は、まさに“鳥の目”で世界を見る感動を与えてくれます。
そんな“空”への憧れを、詩とメロディで表現した名曲があります。中島みゆきが作詞・作曲を手がけた『この空を飛べたら』です。
この曲は、1978年(昭和53年)3月に放送されたテレビドラマ『球形の荒野』の主題歌として使われました。
中でも、次のフレーズはとりわけ印象的で、心を打たれます。
ああ人は 昔々
鳥だったのかもしれないね
こんなにも こんなにも
空が恋しい
このわずか4行の歌詞には、詩的な美しさと哲学的な深みが、共存しているように感じます。まるで遠い記憶を呼び起こすような、切なさと温かさ。
歌全体のクオリティを一気に高めているのは、まさにこの部分だと言えるでしょう。また、このフレーズに入る直前の言葉、「信じてる、走るよ」のインパクトが、サビ部分をより一層、印象深くさせているようです。
このフレーズについては、多くの人が、様々に解釈されています。
・「鳥だった」という比喩は、空を飛ぶこと=自由や解放を象徴している
・人間が持つ自由への渇望や、本能的な夢が表現されている
・人間の本能的な自由への憧れや、失われた何かを取り戻そうとする
心の叫び
・夢を持ち続けることの、力強さと哀しさが込められている
たった4行ほどの、ごく短いフレーズでありながら、これだけ聴く人を感動させ、またその歌詞の意味について深く考えさせている、ということ自体が、驚くべきことです。
私自身は、あまり深読みし過ぎず、ただ「空を飛びたい」という素朴な想いを詩的に表現したものと受け取っていますが、それで十分だとも思います。歌詞の解釈に正解はありませんので、この楽曲を聴く人それぞれが、自分の心に響いたかたちで、受け止めれば良いのでしょう。
なお、この曲は『第20回日本レコード大賞』で「西條八十賞」(のちの作詞賞)を受賞しています。
ところで、改めてこの楽曲を聴き返していて気づいたのですが、中島みゆき歌唱版では、歌が終わった後、1分半近くも伴奏だけが続きます。
この非常に長いエンディングは、まるで水中に漂っているような静けさをたたえ、深く沈み込むような感覚を呼び起こします。これほど余韻を重んじた構成は珍しく、今ではなかなか見られません。
聴き終えて目を閉じると、あのポエジック(詩的)で感動的な詩とメロディが、頭の中に残り、何時までも響き渡っている気がします。
ちなみに、遥か昔にも、つくづくと空を見上げていた人がいたようです。最後に、平安時代の歌人「和泉式部」の和歌をご紹介しておきます。
【つれづれと 空ぞ見らるる 思ふ人 天降り来む ものならなくに】
(つれづれと そらぞみらるる おもうひと
あまくだりこん ものならなくに)
<出典:玉葉和歌集 巻第十>
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