『面影』は昭和39年に発表された歌謡曲で、静かで哀愁に満ちた歌です。世間的には決して大ヒットした曲とは言えませんが、歌い手 “三島敏夫” の柔らかく優しい歌声の魅力もあり、数ある昭和歌謡の中でも印象深い一曲になっています。
今回は、この曲のイメージ映像で描かれた情景の考察と共に、歌い手である三島敏夫の特異な経歴から、太平洋戦争の記憶をも辿ってみたいと思います。
1.歌のイメージ映像で描かれた情景を読み解く
リンク先のイメージ映像、【降りしきる雪の中で、立ち尽くす女性の後ろ姿と遠景の蒸気機関車】の情景は、情趣があり素晴らしいですね。
ここで使われている映像は、実際にはクロマキーなどの合成技術を使って作られたものだと思います。このため、以下の論及は『推理遊び』のようなものになってしまいますが、敢えて映像が実写だと仮定し、映像と歌詞からこの情景を読み解いてみたいと思います。
使われている映像全体が霞んでいるため、先頭車両に明示されている型式番号もぼんやりとしか識別できませんが、車両近接時の正面文字盤の型式名は、微かに「C62 2」と読み取れます。
C62-2は1957年(昭和32年)2月から4両編成の急行「大雪」の牽引車として函館-小樽間で使われていました。また、急勾配と急曲線が連続するこの区間では、C62-2が重連の先頭に立つことが多かった、との当時の記録が残っています。
表題曲『面影』がリリースされたのは昭和39年ですから、この映像は昭和32~39年頃、北海道の函館ー小樽区間を走行していた函館本線の蒸気機関車で、その車両を牽引していたC62-2を撮影したものだと推定できます。
この映像だけで撮影場所まで特定することは困難ですが、可能性として高いと考えられるのは倶知安駅ー長万部駅の間の急曲線地点です。歌詞1番の冒頭に「北国の 春浅い川岸~」と書かれていて、女性が立っている場所は河岸近辺だと分かりますが、この函館本線の区間には、一級河川の尻別川(しりべつがわ)に沿って走る箇所が多くあります。
特にニセコ駅付近では、その尻別川が線路に近接しています。このため、イメージ映像、及びこの曲の歌詞1番からその舞台を敢えて特定するなら、【昭和30年代後半の春浅い時期に “ニセコ駅近辺” から、函館本線を走る蒸気機関車C62-2を見送っている映像】ではないかと推定されます。
<映像中の女性についての推理>
さて大胆ですが、ここからさらに、このイメージ映像に出てくる、雪の中で立ち尽くしている後姿の女性が、どういう人物だったのかを推理してみましょう。
先ず、昭和30年代後半のニセコ駅周辺での生活事情がどういう状態だったのかを調べてみると、昭和30年代の北海道を象徴する、鉄路と暮らしの交差が浮かび上がってきました。
当時のニセコ村(旧狩太村)の住民数は概ね7,000人程度で、主に林業や酪農で生計を立てている人達が多かったようですが、観光の萌芽期でもありました。ニセコアンヌプリ国際スキー場などが開発されたのは、この時期から少し後の昭和40年代以降ですが、温泉地としては既に知られていたようです。
ニセコ温泉郷(湯本温泉など)への訪問客がいて、民宿や旅館など観光関連で生計を立てる人も出始めていました。こうした当時の村の生活事情を考慮すると、イメージ映像中の女性はニセコ村の民宿の娘で、彼女が見つめているSLに乗っていたのは、恋仲になっていた東京方面からの常連客だったのではないかと想像されます。
その相手は、C62-2に乗って函館まで行き、そこから青函連絡船で本州へ渡り、東京方面へ帰る途上だったのでしょう。この歌のタイトルが『面影』となっていることから察すると、結局この二人の関係は、長くは続かなかったのだと思います。
ニセコの雪原を駆け抜ける名機C62、その姿を見送りながら、この時女性は何を思っていたのか。それを想像するだけで、胸に波紋が広がります。
2.三島敏夫の稀有な経験とサイパン島の戦い
この曲を歌った三島敏夫は広く知られた歌手ではありませんでしたが、「和田弘とマヒナスターズ」のボーカリストとして歌われていた時期もありました。石原裕次郎が歌手としてデビューした当時、その歌唱指導をしていたとも言われています。
自身はハワイアン歌手としてデビューし、ソロ歌手としても幾つかのヒット曲を出されていますが、中でもこの『面影』は「知る人ぞ知る隠れた名曲の一つ」になっています。
出身はサイパン島(彩帆島)で、戦時中 水上特攻兵器 “震洋” の特別攻撃隊の一員に選ばれ、出撃前に敗戦となったため一命を取り留めた、という稀有な経験をされた方でもあります。
当時のサイパン島は、日本軍の太平洋における要衝の1つとして軍司令部が設置され、太平洋戦争末期には日本の絶対国防圏の中核拠点になっていました。
サイパン島での日本軍の守備計画は、伝統の水際配置・水際撃滅主義による上陸部隊撃破に主眼が置かれていました。そうした中で、ついに1944年(昭和19年)6月15日から7月9日にかけて、日本軍守備隊の総兵力約4.3万人(主に第43師団)と、島への上陸作戦を敢行したアメリカ軍の上陸部隊約7.1万人(第2海兵師団と第4海兵師団)が激突し、激戦が展開されました。
しかし、圧倒的な戦力差(兵力、物量)により、日本軍は制海権と制空権を失い、補給も途絶する中で次第に追い詰められ、7月7日に玉砕。多くの兵士が最後のバンザイ突撃を行い戦死しています。
軍人だけでなく、島に居住していた多くの民間人も戦闘に巻き込まれ、または集団自決などで命を落としました。日本軍の9割以上の4万人近くが戦死、民間人犠牲者も約1万人に及んだとされています。
三島敏夫が配属された震洋隊(特別攻撃隊)が出撃時に使う予定だった水上特攻兵器「震洋」は、小型の高速モーターボートに爆薬を搭載し、搭乗員もろとも敵艦艇に体当たりして破壊することを目的とした特攻兵器でした。
1944年(昭和19年)春頃から開発が始まり、マリアナ諸島やサイパン、フィリピンなど、戦局が悪化していた南方の島々に緊急配備されています。
一方、サイパンの戦いと連動して発生した「マリアナ沖海戦」で勝利したアメリカ艦隊は、日本艦隊の残存部隊を追撃したものの、日本艦隊の作戦中止による北西方向への変針などを受けて追撃を打ち切り、西方からサイパン方面への針路予定を変更して帰投しています。
このアメリカ艦隊進路変更により、三島が配属されていたサイパンの震洋隊は出撃する機会なく終戦に至っています。
震洋隊に配属され、生き残った有名人には、三島の他に小説家の島尾敏雄(*2)、ジャーナリストで元参議院議員の田英夫もいましたが、何れも戦後に、戦争を語る継承者として記憶を繋いでいます。
なお、この震洋隊に関しては終戦時に運命を分けた逸話があります。
8月15日終戦の玉音放送後の翌日に出撃命令が出されましたが、これは司令部の少佐が配下の部隊に独断で命令したものでした。これによって多くの隊員が終戦後の出撃で無駄死にしています。
一方、第132震洋隊では、同隊隊長渡邊國雄中尉が『それは少佐殿個人の考えですか。それとも司令の命令ですか。司令の命令ならともかく何の連絡も受けていませんので今日のところはお引き取り下さい』と言って出撃せず、配下の隊員の無駄死を防いでいます。
3.太平洋戦争での特攻作戦
太平洋戦争中、日本軍が行った特攻作戦(体当たり攻撃)は、この爆薬を積んだ体当たりべニアボート「震洋」だけではありません。
他に、人間魚雷「回天」や爆弾とロケットエンジンを組み合わせた「桜花」、そして戦闘機や爆撃機に爆弾を積んで体当たりする零戦などの特攻機(*1)が知られています。
人間魚雷「回天」について、私には忘れられない記憶があります。昔、仕事で1か月ほど広島県や山口県の全域を回っていたことがありました。この時は朝と夕方だけが仕事で、昼間は全くの空き時間だったので付近の名所を訪ね歩いていました。
ある時、広島の徳山から船で「大津島」という小さな島に渡ったのですが、到着して初めてそこが特攻「人間魚雷“回転”」の出撃基地だったことを知り、衝撃を受けました。
太平洋戦争当時の大津島は、特攻と知らされず集められた兵学校、機関学校、予科練出身者や出陣学徒の訓練基地にもなっていました。
そこでは酸素魚雷を改造した内径1m脱出装置なし時速55キロの体当たり兵器「回転」の過酷な操縦訓練が行われていました。
残された隊員の記録には、「訓練は死と隣り合わせ、隊に入ってからは、目にする全てのものが新鮮に感じる」などと書き残されていました。
私が大津島に渡ったのは3月上旬でしたが、小高い山の上の記念館前には実物の「回転」が展示されており、その山麓の出撃基地だった岬には、黄色い菜の花が一面に咲いていたのが印象深く、今でも忘れられません。
いま、表題曲『面影』を聴くと、静かで柔らかな歌声の奥に、遠い島で生き残った一人の男の胸に刻まれた「戦争の面影」がそっと響いてくるように思えてなりません。
<<参考音源>>
演奏されているのは、かなりの年齢の方ですが素晴らしいです。アコーディオンの世界では、有名な方なのでしょうか。
<<参考資料>>
(*1) 以前紹介した『流浪の旅』の歌の記事中では、「KAMIKAZE」と呼ばれた特攻の実態について詳しく書いていますので、ご参考にして下さい。
(*2) 島尾敏夫:戦争中の体験を描いた『出発は遂に訪れず』などの作品群があります。
・サイパンの戦い(Wikipedia)
・NHK 証言記録 兵士たちの戦争 ベニヤボートの特攻兵器-震洋特別特攻隊―より
・戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期
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