2025-12-26

旅の夜風 (心が浮き立つような、戦前歌謡曲の代表作)

 旅の夜風(リンク)

 軽やかでありながら、どこか胸の奥に残る歌があります。『旅の夜風』はその典型のような曲で、聴いていると、心が浮き立つようでありながらも不思議な余韻を残します。前・間奏部も含め、流れるようなメロディと歌詞が耳に心地よく、昭和13年の発売当時、空前のヒットを記録しました(*1)。


 戦前歌謡曲の代表作と呼んでも、決して言い過ぎではありません。しかし、私の親世代が青春期に親しんだこの歌も、時代が移り、いまでは懐メロとして口ずさまれる機会さえ、ほとんど無くなってしまいました。
 その世代の人々が、次々とこの世を去っていくことを思えば、無理もないことかもしれません。

 

 元々は、昭和13年(1938)に公開された松竹映画『愛染かつら』の主題歌として作られた歌だけに、映画のストーリーを知らずに歌詞だけを追うと、どこか唐突で背景が掴みにくい部分が多いのも事実です。


 冒頭の『花も嵐も 踏み越えて 行くが男の 生きる途(みち)・・・』という一節は、とりわけ印象的で妙な重みがあります。この曲のタイトルは忘れていても、歌い出しのこのフレーズを聴くと、「あゝこの歌か・・」と思い出す人も多いと思います。


 この表現は、井伏鱒二による漢詩訳「花に嵐のたとえもあるぞ サヨナラだけが人生だ」に、何らかのヒントを得ているのではないか・・・私はそんなふうに感じています。


 井伏鱒二による訳詩の基になった漢詩というのは、遠く唐代の詩人「于武陵」という人が残した、次のような一片の漢詩です。 


  (白文)       (書き下し文)

  勧君金屈巵      君に勧める金屈巵(きんくつし=大きな金の盃) 

  満酌不須辞      満酌(まんしゃく) 辞するを須(もち)いず 

  花発多風雨      花開けば風雨多く 

  人生足別離      人生 別離足(おお)し 


 このような漢詩は、戦前の知識人層には、広く共有されていたはずです。
 そこから、最後の隻句「花開けば風雨多く 人生 別離足(おお)し」が、井伏鱒二の訳によって広く知られるようになり、その人生観が『旅の夜風』の歌詞冒頭へと連なっていった――そう考えると、この歌の世界がぐっと立体的に見えてきます。


 また、映画の『愛染かつら』という題名も、初めて目にすると不可解な言葉です。これは、長野県別所温泉の奥に北向観音を本尊とする古刹があり、その境内に “愛染明王堂” と並んで立つ、“桂(カツラ)の巨木” に由来するそうです。その光景が、同名原作小説の題名となり、やがて映画のタイトルとして定着しました。


 従って、こうした命名の背景を知らずにタイトルの言葉だけを追えば、意味が分かりにくいのも無理はありません。しかし、映画や歌が大ヒットした当時、多くの人はその由来まで深く考えることなく、“言葉の響きそのもの” を受け取っていたのではないでしょうか。


 こうしたことは、私たちの日常でもよく起こります。人は往々にして、意味よりも先に、”情緒” を受け取ってしまいます。また、あまりにも有名になったものは、疑問を持たれることなく「当たり前」として受け入れられてしまいます。


 問い直すこと自体が、かえって野暮に感じられてしまうことすらあります。そのため、新たな発見の芽がそこで摘まれてしまうとしたら、少し惜しい気もします。



 話が別の方向に行ってしまいました。ところで、この歌のリンク先コメント欄には、たくさんの方が投稿されていますが、その中で、アコーディオンを携えて、たくさんの高齢者施設を訪問されていた方が書かれた、次のような一文が目につきました。 


<<引用: (ハンドル名 阿弥陀堂) 2008年2月9日の投稿文(要旨)>> 

【高齢者施設を回っていて、そこで色々な歌を演奏して気が付いたことがあります。喜んで歌ってくれる歌は多いのですが、歌いながら(あるいは聴きながら)涙を流される歌は、実はそれほど多くはないのです。その数少ない歌が、この『旅の夜風』です。 


 この歌を聴いて涙を流されるお年寄りの生い立ちは千差万別ですから、特別の思い出がある、というだけでは無いように思います。この歌のメロディに、涙を誘う不思議な魅力があるのかもしれません。】 



 この文を投稿されたのは、今から18年ほど前になりますから、その当時に施設でこうした歌を聴かれていたお年寄りの方々の多くは、既に亡くなられているかもしれません。


 『旅の夜風』の曲は、軽やかで、心が浮き立つようなメロディでありながら、その底流に人生の哀歓を感じさせるところがあります。それが自分の人生経験と重なって、聴く人の心の奥に深く触れるのではないでしょうか。



<<参考音源>>

霧島昇&ミス・コロンビア(松原操)による『旅の夜風』(リンク)

(注)リンク先映像の俳優は、田中絹代(高石かつえ  役)と上原謙津村浩三  役)です。


<<参考情報>>

(*1) リンク先の<<蛇足>>解説では、『旅の夜風』のレコード売り上げが120万枚で、当時日本にあったプレーヤー(蓄音機)の台数から換算すると、現在の環境なら、2,000万枚ほどのレコード売り上げになると推定されています。


 ただ、調べてみると120万枚という数字は実売数ではなく、生産/出荷枚数であった可能性が高いため、2,000万枚は現代的に正確な推定値とは言いにくいかもしれません。しかし、数字的な根拠はともかく、当時の人口・世帯数や家計力から考えても、驚異的にヒットした歌であったことは間違いありません。


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