秋の夕暮れ、西の空に淡く浮かぶ白い月。その情景を映したような『夕月の歌』は、70年以上の時を経た今も、私たちの心に深く沁み入ります。
忙しい日々の中で、忘れかけていた“やすらぎ” を思い出させてくれるような一曲です。
“夕月” とは「夕方に西の空に見える月で、季節は秋」となっていますが、確かに秋の夕暮れ、ほのかに白い三日月が浮かんでいるのに気づくことがあります。この『夕月の歌』は非常にゆったりとした曲調の作品で、現代のテンポの速いリズムとは対照的に、聴く人の心に静かに染み入るような魅力があります。秋の夕暮れに、一人で物思いにふけりたい時、この曲ほど似合う歌はないかもしれません。
作詞者の寺尾智沙さんは広島の生まれで、名曲『白い花の咲く頃』の歌詞については、「ふるさと広島における幼少時の思い出を書いたもの」と、彼女自身が述べた記録が残っています。従ってこの『夕月の歌』の歌詞冒頭に出てくる “ふるさと” についても、生まれ故郷の広島が舞台になっていると考えるのが自然です。
一方、歌詞では「ふるさとの 丘に来て・・・」と抽象化した表現をとっていますので、これにより、この “ふるさと” は誰にでも共通する「心の原風景」として広がりを持ち、聴く人それぞれが自分の思い出の風景を重ね合わせられます。心の奥に秘めた遠い日の想いを描いたような歌詞ですが、この詩は”現実の思い出”というより、一種のファンタジーとして書かれているような気がします。
ここで、話が少し脇道へそれますが、この歌のゆったりとした旋律から、ふと思い浮かんだのが、緩やかに流れるような「健康法としての太極拳の動き」でした。呼吸と動作をゆるやかに整えることで、心と体の調和を保つ太極拳。その “静かな力” の世界は、『夕月の歌』の持つ静謐な魅力にどこか通じるものを感じます。
太極拳は、本来は武術の一種ですが、今では健康体操として親しまれ、健康・長寿を目的とした愛好者が増えています。年配の方たちが朝の公園など に集まり、ゆったりと流れるような動きをする「太極拳の動作練習」をしている光景を、身近でも目にすることがあります。
その基本動作は、『易経』に由来した太極思想から考案されたものですが、その基となっている太極思想というのは、非常に奥深いものです。
“太極”とは、すべてが分かれる前の混沌とした状態(元気)を指し、そこから「陰陽」の二元が生ずる、とする考え方です。
この太極思想が太極拳の根幹をなしていて、力に頼らず「柔よく剛を制す」の概念から考案された “ゆったりした動作” を続けることで、心身の健康や自然との調和を目指すとされています。
愛好者に高年齢層の方が多いのは、その動作が緩やかで体への負担が少なく、それを続けることが、健康・長寿に繋がるとされているためでしょう。傍目には簡単そうに見えますが、ゆったりと流れるような動きというのは、実は非常に難しい動作で、これは自分で実際にやってみると実感するはずです。
ゆったりした動作で呼吸の流れを意識しながら動くうちに、心身のバランスを整える効果があると云われますが、『夕月の歌』のスローな旋律にも、まさにこの “流れるような調和の感覚” が宿っており、聴く者の心を落ち着かせる力を持っています。
時代が進み、今ではこの『夕月の歌』のような曲を聴いても、“時代遅れの陳腐な歌だ” としか感じない人の方が多いでしょう。しかし、そういう人でも聴くときの心の状態によっては、こうした歌が心の琴線に触れる場合があるかもしれません。
心身ともに元気な時は、現代的なリズミカルで、勢いのある歌が合うと思いますが、心が疲れているときには、静かで穏やかな旋律のほうが心の奥深くに響くことがあります。
それは音楽に限らず、何を“美しい”と感じるかという感性にも通じます。
たとえば、道端の小石を手に取って眺めるとき、それが何億年という悠久の時を経て今そこにあると思えば、その小さな存在にも深い美しさを感じることがあります。同じように、古い歌の中にも時間を超えて輝き続ける “真の美”があるはずです。
70年以上前に生まれた『夕月の歌』。その静かな旋律に耳を傾けると、時代を越えて変わらぬ “心のやすらぎ” が見えてきます。こうした歌は、今のリズム中心の音楽とは異質ですが、その情感を深く感じとるようになると、その分だけ人生が豊かになるかもしれません。
<<参考音源>>
『夕月の歌』と同じ “田村しげる”作曲の歌です。メロディラインが明確でありながら、なおかつ間奏部やエンディングも含め快調なテンポの曲で、なんとなく心弾むような心地がする素晴らしい作品です。
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