2026-01-29

アンニー・ローリー(300年前の “叶わぬ恋の記憶” を、今に伝えるスコットランド民謡)

 アンニー・ローリー(リンク)

 “文部省唱歌” として長く親しまれてきたこともあり、この曲をご存じの方、或いはどこかで耳にしたことのある方は多いと思います。
 明るい旋律でありながら、その奥に ”もの悲しさ” も感じさせる――そんな不思議な印象を残す歌で、いつ聴いても心に沁みるものがあります。


 学校の音楽授業では、合奏練習用の曲として習った記憶がありますが、その当時、この曲が “はるか昔” に創られていた事。まして、一人の女性への切実な思慕から生まれた “原詩の成り立ち” については、想像もしませんでした。


 調べてみると、現在歌われている旋律が作曲されたのは1830年代。歌詞(原詩)が創られた時代はさらに古く、1700年頃にまでさかのぼります。


 この歌のタイトルにもなっているアンニー・ローリー(Annie Laurie)は、実在した女性の名前で、彼女は西暦1682年にスコットランド貴族の末娘として生まれ、そこで育ちました。当時、スコットランド中に鳴り響くほどの美人だったようです。


 この歌詞は、アンニー・ローリーに憧れた若者(ウィリアム・ダグラス)によって書かれた、と伝えられています。


 アンニーとダグラスは相思相愛でしたが、ダグラスが結婚を申し込んだものの、アンニーが未だ15歳と若すぎたことと、ダグラスが、ローリー家とは政治的に対立した立場の人間だったことなどから、彼女の父親に強く反対され、二人の恋は成就しませんでした。


 その後のダグラスの人生は、まさに波乱に満ちたものでした。別の女性との出会いと駆け落ち結婚、自殺未遂事件、大陸への亡命、軍人としての従軍、そして敗北と領地追放――。アンニーへの恋とは対照的に、激動の人生を歩んだことが知られています。
 
 一方、アンニーは、1710年に有力貴族アレクサンダー・ファーガソンのもとに嫁ぎ、穏やかな生涯を送ったとされています。彼女のために大邸宅が建てられ、彼女の好みで作られたという庭園も今に残されています。
 
 没年は定かではないものの、1761年に亡くなったと伝わっていますので、当時では珍しく、80歳近くまでの長寿を全うしたことになります。


 人生の幸・不幸は、しばしば運命に翻弄されるものですが、なかでも「どういう相手と結婚するか」が人生に大きな影響を及ぼすことは、昔も今も変わらない真実でしょう。


 アンニーがもしダグラスと結婚していたら、その後の人生が苦難に満ちたものであったことは、容易に想像できます。ただ、それが本当に不幸だったかどうかは、本人にしか、いや実際に経験してみないことには、本人でさえ分からなかったかもしれません。

 


<同時代の日本、及びスコットランドとの交流状況>
 少し余談になりますが、アンニーが生きた西暦1700年頃といえば、日本は江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉の治世下で、元禄文化が花開いた時代でした。『赤穂浪士による吉良邸討ち入り事件(西暦1702年)』があった頃で、鎖国体制の真っ只中でもありました。


 この時代、「アンニーの住むスコットランドやその隣国イングランドと、日本の間には全く交流がなかったのか」、この点に興味がわき、少し調べてみました。


 この頃の日本は鎖国体制下で、スコットランドとの直接的な交流は、長崎・出島も含め、公式には完全に排除されています。それでは、こうした政治体制のため、当時のスコットランドでは、日本という国のことは全く知られていなかったのでしょうか。


 結論から言うと、そうではなく、実際には幾つかの重要な接点や、史実として確認できる来航・接触エピソードが存在しました。


 中でも重要なのが、エンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kaempfer)という人物の存在です。この人は、ドイツ人でしたが、オランダ東インド会社の医師として2年間ほど日本の長崎・出島に滞在し、江戸参府に同行して将軍・徳川綱吉にも2度謁見しています。


 帰国後、彼は日本研究の古典的著作『日本誌(The History of Japan)1727年英訳出版』を書き現していますが、この書物は 18世紀のイングランドやスコットランドなど英語圏でも広く読まれ、その国での日本像の形成に決定的な影響を与えています。


 つまり、当時スコットランドの人達は日本に来てはいませんでしたが、日本を“知的対象”として真剣に研究していたことが伺えます。
上記の著作物などからの研究結果としての日本理解は、
・秩序が極端に重視される国家
・身分制度が厳格
・礼儀や儀式が異常なほど精緻
・外国人を徹底的に管理する社会


 として捉えていて『奇妙だが理性的に統治された国』と考えていたようです。


 また、興味深いのは、当時の日本人自身もあまり意識していなかったと思える、下記のような「長所」を高く評価し、称賛している点です。 
・宗教間での戦争が無い
・王権が絶対でありながら内乱が少ない、また犯罪が少ない
・官僚制度が機能している


 逆に「鎖国という異常な排他性や、キリスト教徒への過酷な弾圧」、という負の側面への否定的なイメージも、強く存在していました。


 つまり、18世紀のスコットランドの人達にとって、日本という国は『秩序を極限まで推し進めた、もう一つの特異な文明世界』と認識していたようです。
 ただ、現実的な交流相手というより、ヨーロッパ社会を批評するための「鏡」として見ていたのかもしれません。

 


 アンニー・ローリーが、スコットランドで生きていた時代、日本では ”浮世絵の祖” と呼ばれる菱川師宣が、代表作『見返り美人図』を描いていました。この時代、ヨーロッパと日本の文化は全く異質でしたが、「美しき女性」に心を寄せる人間の感情だけは、洋の東西を問わず変わらなかったのでしょう。


 当時の日本とスコットランドは、直接交わることはありませんでした。しかし、同時代に生きた人々の価値観や葛藤を並べてみると、人間の本質的な感情は普遍的で、驚くほど似通っていることに気づかされます。


 しかし、当時の日本人は、海の向こうにはスコットランドという国があり、その国の貴族のお城にはアンニー・ローリーという絶世の美人がいたことなど、誰一人想像さえもしなかったでしょう。


 一方、アンニー・ローリーの悲恋後のエピソードはあまり伝わっていませんので、彼女が『日本誌(The History of Japan)』を読んでいたかどうかは全く分かりません。もちろん史実として確認できるものではありませんが、時代的に読める環境にあったことは確かです。


 もし彼女がこの本を読んでいたとすると、海の向こうには、全く異なる文明社会の国(日本)が有るという事実。さらには社会体制や価値観の違いなどを知り、彼女の世界観や人生観も、それまでとは少しは変わっていたかもしれません。


 叶わぬ恋に終わったアンニーとダグラスの関係は、シェイクスピアが書いた悲劇『ロミオとジュリエット』を思い起こさせますが、ウィリアム・ダグラスにとって、アンニー・ローリーは “永遠の女性” だったのだと、察せられます。


 アンニー・ローリーという女性を彷彿とさせる、美しさと気品に満ちた、この楽曲の詩と抒情的旋律によって、その一途で深い愛は、世界中の人々の心に永遠に共鳴し続けることでしょう。

 


<<参考情報>>
アンニー・ローリーが暮らしていた邸宅(リンク)
 アンニー・ローリーが暮らした邸宅は「Craigdarroch」。 18世紀に建てられ、夫婦で長年居住した歴史的な屋敷です。今も現存し、予約・ツアー形式で見学できる場合がありますが、自由公開の大観光地ではありません。
 
 Google Map でも確認できますが、検索の仕方など詳しい情報については、内部ページに書いていますので、ご興味のある方は上記リンク先をご確認下さい。

 


<<参考音源>>
安田祥子の歌唱によるアンニー・ローリー(リンク)
(注)リンク先での歌のタイトルは、「安田姉妹による歌唱」のように書かれていますが、実際には姉の安田祥子による独唱になっています。
 

  

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