2026-01-25

情熱大陸Full Version_2012年6月LIVE(ポップス曲の名演奏から、芸術的才能の本質を考えてみた)


情熱大陸(リンク)
(注)リンク先映像には、5分30秒の時点で広告が入りますので、 [skip] 操作が必要です。

 一度聴けば、身体が無意識に反応してしまう。『情熱大陸』という曲には、そんな不思議な力があります。早いもので、この曲が生まれてから、すでに30年近くの歳月が流れました。1998年から続く、民放の同名ドキュメンタリー番組の主題歌として広く知られていますが、番組は今も続いていますので、一度は耳にしたことのある人が多いと思います。

 
 ヴァイオリンをクラシックからポップスにまで広げた葉加瀬太郎の代表曲ですが、情熱的なヴァイオリンの音色と、ラテン系リズムを駆使したダイナミックなサウンドが特長で、様々な楽器で演奏されています。リンク先映像は2012年6月のLIVEで、『情熱大陸Full Version』とでも言うべき演奏になっています。

 舞台上では、葉加瀬太郎によるエネルギッシュなヴァイオリン演奏の他に、エレキギター、管楽器、打楽器、ピアノなど、各種の楽器が総動員され、会場の観衆を盛り上げています。

 この曲、及び葉加瀬太郎の演奏スタイルは、少なくとも日本の一般的な音楽ファン層には、非常に大きな影響を与えたと思います。『情熱大陸』が登場するまで、ヴァイオリンというのはクラシック畑で演奏されるもので、観客はその演奏を静かに聴くだけ、というイメージを持っていた人が多かったはずです。

 しかし、リンク先映像のように、この曲ではポップス音楽の主役になっていて、その演奏スタイルもクラシックとは、まるで趣が違っています。ヴァイオリンでクラシック曲を演奏している人には、邪道と思われたかもしれませんが、考えてみると、楽器をどのような曲でどういった形で演奏しようと、特に制約は無い訳ですから、ある意味で革命的な試みだったかもしれません。

 少なくとも日本では、多くの人がこの曲によって、ヴァイオリンを身近なものと感じるようになった事は確かだと思います。ヴァイオリンを、静かに鑑賞する対象から、身体ごと受け止める音楽へと変えた――。『情熱大陸』という曲がもたらした変化を、そう言い表しても大きな間違いではないでしょう。


 葉加瀬太郎は大阪の千里ニュータウンで、団地っ子として育った人ですから、音量の問題もあり、当時、家の中でのヴァイオリン練習は到底できなかったでしょう。幼い頃は週1回、近所の公民館で練習していただけだったそうです。

 ある雑誌インタビューの中で、自分の生き方について、次のように語っています。
【結局人生は一度きりで、好きな事やるのはもう当たり前で、あとは、楽しむ事しかないと思うんだよね。アイツの人生面白そうだな~って人を見るのも、幸せになるよね。】

 
 リンク先映像の舞台上では、自由奔放に振る舞っているように見えますが、本番前はやはり、相当緊張するようです。

【本番の5分前は緊張して、お客さんが居なかったらいいのに、と裏腹なことを思ってしまう(笑)。だって3,000人の前で結婚式のスピーチをする修行のようなもんです。
 人が喜んでくれるのが好きなんですよ、褒めてもらったら嬉しいし。音楽作るのも、今は仕事になっていますけど、毎日遊ばせてもらっているような気持ちです。中2の少年のまま暮らそうと決めたんです。そうやって全力で遊ぶ、いつも羽ばたいて遊ぶ。それが芸術をする人の役割でしょう。】

 こうした生き方ができる人は少ないと思いますが、素晴らしいですね。大阪人らしく気さくな人柄で、大の「釣り好き」や「サッカーファン」としても知られています。



 さて、この曲は先の映像のような合奏曲としてだけでなく、独奏曲としても、多くの演奏家に取り上げられています。下記の映像はトランペットでのソロ演奏です。
          情熱大陸のトランペット独奏へのリンク

 
  軽く吹いているように見えて、透明感のある素晴らしい音を出しているところが凄いですね。何事もそうですが、卓越した技というものは、往々にして拍子抜けするほど軽やかで自然に見えるものです。

 あたかも何の苦労もなく音を生み出しているように見えますが、それは、努力の痕跡が消えてしまうほど、同じ行為を繰り返した先にしか現れない境地なのかもしれません。

 というより、その練習を「努力」と感じているうちは、未だそういう域には達しえないのではないか――、そんな気さえしてきます。やはり、本当に好きで、いくら練習していても苦にならないような思いを持っている人だけが、そういう境地に達することが出来るのだと思います。

 こうした名人級の人達の演奏では、楽譜を見たり、頭の中で思い出しながら演奏していたのでは、到底間に合わない感じがします。恐らく演奏中は何も考えていないはずで、勝手に手が動いていくという感覚ではないでしょうか。

 こうした人達の演奏を聴いていると、一見、我々凡人には到底無理な、天才たちにのみなしえる技のようにも感じられます。これは、音楽に限らず他の芸術においても同じです。

 先日、テレビ放送で在りし日の手塚治が、漫画を書いている様子が映し出されていましたが、その映像を見ると、正に神業のようでした。

 下書き一切なしで、猛烈なスピードで書いていますが、書き終わった絵を見ると、躊躇して書いたような跡が全くない、各コマが完璧な絵になっています。
 また、描くと同時に次の絵やストーリー展開も考えていたはずですから、正に天才としか思えないような書きぶりでした。

 私は、この映像を見た時、夏目漱石の『夢十夜』という短編の中に書かれている一場面を思い出しました。第六夜に出てくる話なのですが、ここには漱石が生きていた明治時代の東京の護国寺山門前で、鎌倉時代に生きた、あの運慶が仁王像を刻んでいる光景がでてきます。

 この中では、次のような場面がでてきます。
夏目漱石「夢十夜_第六夜」護国寺山門前で運慶が仁王像を刻んでいる場面(リンク)

 漱石独特のユーモアを交えた描写をしていますが、「芸術とは何か」「才能とは何か」という問いを、これ以上ないほど鮮やかに浮かび上がらせる一節でもあります。

 要するに運慶に頭の中には、出来上がった彫刻の姿が明確に出来ていて、後はそれに向かって手が勝手に動いていくという感覚なのでしょう。手塚が漫画を描く時も、同じような感覚だったのかもしれません。


 さらに踏み込んで考えてみると、私たちが日々、何気なく行っている行為も、少し視点を変えれば、驚くほど高度で不思議な営みであることに気づかされます。

 頭に思い浮かべた情景を言葉に変え、漢字かな交じりの文章として紙に書いていく――慣れてしまったから当たり前に感じているだけで、決して自明な能力ではありません。

 それは、運慶や手塚治が行っていた天才的な芸術的行為と、本質的にはそれ程変わらないのではないか、という気もしてきます。

 難しい漢字であっても、手が勝手に動いて紙に書いているという感覚が誰にでもあるはずですが、これも漢字を全く知らない外国の人達から見たら、驚異的に思えるのかもしれません。

 そう考えると私達一人一人にも、実は、運慶や手塚治に劣らない素晴らしい力が潜在しているのだとも考えられます。

 


 最後に、表題曲の話に戻りますが、この『情熱大陸』という曲がオープニングで使われているTV番組では、各界の第一線で活躍する人物に密着し、その生きざまに焦点をあて、その人の魅力・素顔に迫っています。

 登場してくる人物は様々ですが、共通しているのは、自分の仕事に大変な情熱をもって取り組んでいるという点でしょう。この番組、及びテーマ曲のタイトルが「情熱大陸」となっているのも頷けます。

 やはり、どういう分野の仕事であっても、才能以前にその対象への情熱というか、それ自体が好きでたまらないという感覚が必須であり、それが有るが故に、上達への道を自然に辿ることになるのだと思えます。

 『情熱大陸』という番組が描いてきたのは、特別な人間の物語ではなく、情熱を手放さなかった人間の姿なのでしょう。才能とは、生まれ持った何かではなく、好きなことに向き合い続けた結果として、静かに形を成していくもの――この曲を聴くたびに、そんな思いが胸に浮かんできます。

 

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