2026-05-16

砂山の花(再び訪れた海辺で、失われた初恋を偲ぶ歌)

 砂山の花(リンク)

 素晴らしい歌でありながら、時代の波間に静かに埋もれ、忘れられてゆく歌は多いのですが、この『砂山の花』もその一つです。
 しかし考えてみれば、それは歌に限った話ではないのでしょう。『人』もまた同じで、いつまでも誰かの記憶に残り続ける方が、むしろ稀な存在なのかもしれません。


1.海辺で回想する、実らなかった初恋
 歌詞は端正で静かな抒情を湛えています。作曲は抒情歌の名作を数多く残した八洲秀章。そのメロディは哀愁を帯びながら、クライマックスに向けて徐々に高揚感が高まるような構成になっています。また清冽な主旋律とともに、その流れに寄り添うピアノ伴奏の響きが美しく、心を揺さぶられます。

 この歌の背景について、上記リンク先の解説で二木鉱三さんは、【10 年以上、もしかしたら数十年経って、結ばれることなく終わった初恋の人を偲びに海辺にやってきた】、という状況を想像されています。
 確かに、この歌にはそうした “歳月を経た追憶”を思わせる気配があります。

 この推測を手掛かりに、以下では作詞した保科義雄の経歴を辿りながら、この歌詞が生まれた背景や歌詞が描いている海辺の具体的な場所。また、歌のタイトルでもあり象徴として描かれている『砂山の花』の種類についても、少し深掘りして探ってみたいと思います。


2.作詞した保科義雄の生い立ち
 保科義雄(本名は義夫)は大正5年(1916年)、佐渡の両津(旧・加茂村平沢)で生まれています。保科家は質素で地道な生活を送る家庭でした。
 義雄は秀才で、難関だった新潟師範学校に進学しています。

 卒業後は佐渡ヶ島で小学校の教師を務めていました。文学や詩を愛する繊細な青年で、教鞭を執りながら詩作に耽る姿は、当時の村の人々から見れば「少し浮世離れした文学青年」に映っていたかもしれません。

 この『砂山の花』の歌詞は、当時の義雄が佐渡で経験した、若き日の実らぬ初恋を投影したものである可能性が高いと思います。
 歌詞3番に書かれている『君』は実在した人で、その面影を「白い花」に託したと考えても不思議ではありません。


3.相手の女性と「家柄」の違い
 地元には、その頃の義雄の初恋について、いくつかの口伝えが残されています。相手の女性は、佐渡の両津湊(みなと)で、非常に大きな商い(*1)を営む名家の娘でした。

 二人がどのように出会ったのか、詳しい記録は残っていませんが、義雄が教師として両津の町なかに通っていた時期、あるいは学生時代の休暇中に、共通の知人を介して言葉を交わすようになったのではないか、と推測されます。
 
 しかし、この恋は結局叶う事はありませんでした。当時の佐渡、特に両津のような港町では、厳しい「家」意識があり「家柄」の差は絶対的な壁でした。教員という職業は尊敬されていたものの、名家との縁談となれば話は別で、「一介の教員」と「街の有力者の愛娘」では、結婚など到底許されなかったのでしょう。

 周囲の反対という事情の中で、義雄は身を引くしかなかったのだと察せられます。結局想いを遂げられぬまま、彼女は両津の有力な家柄の他家へ嫁いでしまいました。 

 こうした悲恋のエピソードが義雄の創作活動の原点になり、この歌詞の根底にある「砂山に咲く儚い花(手の届かない存在)」、というレトリック(比喩)に繋がっていると考えられます。


4.実在の場所と、描かれている花の種類
 それでは、この歌詞で描かれている海辺は何処で、咲いていた「白い花」はどういった種類の花だったのでしょう。この歌詞では、具体的な地名や花の名前などは一切書かれていませんが、当時の状況からこの部分についても推測してみたいと思います。

 佐渡の両津近くには平沢という海岸があります。義雄の出身地に隣接するその海岸は、砂丘のような起伏が続き、潮風の強い、どこか寂しさを帯びた風景で知られています。
 義雄にとって幼い頃から親しんだ風景だったはずで、歌のタイトルである「砂山」のイメージに合致します。

 また、当時の地元の人には、仕事帰りの義雄が、夕暮れの砂丘に腰を下ろし、海を見つめながら手帳に言葉を書き留めていた姿が、記憶されています(*2)。

 一方、この歌のタイトルになっている「砂山の花」の種類ですが、海岸の花というと、一般的には「浜茄子(ハマナス)」や「浜昼顔(ハマヒルガオ)」を思い浮かべる人が多いと思います。

 しかし私は、この歌詞で描かれている白い花は、今も平沢海岸で実際によく見かける「トベラの花(*3)」ではないかと思うのです。トベラは潮風に強く、海岸の砂丘の縁や岩場に群生する常緑低木です。

 ハマヒルガオは多くが薄ピンク色で、香りはほとんどありません。一方でトベラは、初夏(5月~6月)に真っ白な花を咲かせ、周囲に漂うほどの非常に甘く強い芳香を放ちます。歌詞にある「そよ風に甘くほのかな」という表現は、まさにトベラの香りの特徴そのものです。

 また、ハマヒルガオは一日花で、萎んで終わりますが、トベラは小さな五弁の花が房状に咲き、風に吹かれると花弁がほろほろと散る様子が見られます。この「散りゆく」という儚い描写も、樹木の花であるトベラの方がイメージに近いと言えます。


5.本業では建設業に携わっていた
 義雄は失恋後、教師の仕事を辞して島を離れ東京で暮らしました。戦時中は海軍で活躍、戦後に佐渡の建設会社「本間組」に入社し、後には本間組両津所長として佐渡のインフラ整備の仕事に深く関わるようになります。

 教育者であった彼が、なぜ新潟を代表する建設会社「本間組」に転身したのか。そこには当時の社会状況と、佐渡特有の人間関係があったと考えられます。

 本間組の創業者である本間辰治氏は、義雄と同じく佐渡の出身です。本間組は佐渡に深いルーツを持つ企業であり、島内の優秀な人材を積極的に登用していました。

 当時の教員は聖職として尊敬される一方、薄給であることでも知られていました。戦前・戦中から戦後にかけての激動期、地元有力企業からの誘い、あるいは自身の生活基盤を固めるために、知的な管理能力を買われて転職したというのは、自然な流れだったでしょう。

 土木の専門知識がなくとも、師範学校出の「元・先生」という肩書きは、当時の地方社会では絶大な信頼を勝ち取れるものだったと考えられます。

 役所との折衝、地域住民との合意形成、複雑な書類作成など、「文章力」と「調整力」が求められる所長の職務において、彼の教育者としての素養は非常に大きな武器になったはずです。


6.取り戻せない過去への寂寥感
 彼が、この『砂山の花』を発表した昭和25年(1950年)頃は、まさに本間組での仕事が脂に乗っていた時期と重なります。昼間は、海洋土木の工事で采配を振るう「本間組両津支店の責任者」。そして夜や休日は、生まれ育った海辺の砂浜を歩き、言葉を紡ぐ詩人(*4)。 

 このギャップが、単なる感傷に浸るだけの歌ではない、独特の陰影をもった歌詞を生み出したのかもしれません。若い頃、家柄の違いで恋を諦めたというエピソードから推測されるのは、後の「本間組両津所長」という肩書きは、かつての彼が恋の成就のため必要だった「社会的地位」そのものではなかったということです。

 地位を得た後に書かれた『砂山の花』には、「あの時、今の自分であれば……」という、大人になった者だけが知る、取り戻せない過去への寂寥感が、静かに滲んでいるように思えるのです。


7.家柄に阻まれて失った初恋への鎮魂歌
 この曲は、昭和25年(1950年)にNHKのラジオ歌謡として小川静江(*5)が歌いました。保科義雄が歌詞に込めた「かつての恋人を偲ぶ切ない情景」を、過剰な感情移入を抑えて、淡々と深く歌い上げる彼女の歌声は、不思議な透明感があり心に響きます。
 その歌唱は、当時この歌を聴いた多くの人々をも魅了したに違いありません。

 その頃、この歌詞で描かれた『君』(義雄のかっての恋人)もラジオでこの歌を聞いていたかもしれません。そうであれば “保科義夫”が本名ですので、自分のことを歌っていると気づいたと思います。
 あるいは彼女に届くように願って、意図して本名で発表したのか――、そんなロマンチックな想像が掻き立てられます。

 おそらく平沢の海岸は、二人でよく訪れていたでしょう。潮騒の波音だけはその頃と変わらぬ海辺で、かつて愛した人を思い出している――。そんな孤独な情景が、静かに浮かび上がってきます。

 彼女の象徴として「砂山に咲く白い花」を描いたこの歌詞は、単なる風景描写ではなく、文学や詩を愛した繊細な青年が、家柄という壁に阻まれて失った初恋への “レクイエム(鎮魂歌)” だったと言えるのかもしれません。


<<参考音源>>
緑咲香澄が歌う『砂山の花』(リンク)

 (補注)緑咲香澄さんは、実在の歌手ではなく、音声合成によるAIシンガーで、2022年に引退されています。

 


<<参考情報>>
(*1)大きな商い
 口伝えでは「米商や回船問屋」、もしくは「両津周辺の大網元の娘」だったという説があります。

(*2)地元有志による歌碑の建立
 佐渡の平沢海岸(現在の両津港の少し北側)には、現在この歌の歌碑が建っています。この曲がラジオ歌謡で全国的に有名になった際、地元有志の間で保科義雄の功績を称える活動が起こり、歌碑の設置へと繋がりました。

(*3)トベラの花
 5~6月に白い香りの良い花を咲かせる常緑低木。海岸沿いに自生し、芳香のある花は白から黄色へ変化します。別名「トビラノキ」とも呼ばれ、魔除けとする風習や、冬に3裂する赤い種子が特徴的です。佐渡、特に両津周辺の海岸線には、古くからトベラが自生しています。

<トベラの花>

   

 

<佐渡の平沢海岸>    

   

   

(*4)詩人としての活動
 作詞家としては、歌謡界の巨匠である西條八十を慕い上京。その西條八十に師事し、プロの作詞家としての道が開けました。主に佐渡を拠点に活動、本業の傍ら詩作を行っていました。作詞活動では本名の「保科義夫」だけでなく、「保科義雄」や「泉淳三(いずみ じゅんぞう)」といった名前を使い分けていました。

 勝彩也や八代亜紀のヒット曲『恋あざみ』の作詞では、泉淳三の名前で発表しています。また、佐渡関係の御当地ソング(「大川小唄」など)や新民謡を数多く手掛け、地元の芸能発展に寄与しています。

(*5)小川静江
 女優で声楽家の吉岡小鼓音(さこと)と、八嶋秀章の娘・松村美和子が対談していますが、その中で松村さんが小川静江に会った時の話が出てきます。
 それによると、小川静江さんは東京下町育ちで気さくで飾らない人だったそうです。八洲秀明は、「作った声で歌うのを嫌がった」そうで、『砂山の花』の歌唱でも、普通に飾らないで歌うように言われていたのでしょう。

 

 

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