「みどりの風に おくれ毛が――」この言葉を聴いただけで、あの頃の気配がよみがえる。歌謡曲とは、音楽というより ”時間そのもの” なのかもしれません。
表題曲は、昭和23年(1948)に公開された同名映画の主題歌です。原作は小島政二郎が雑誌に連載した恋愛小説で、東京と大阪を舞台に、運命に翻弄されながらも純粋な愛を貫き、多くの困難を乗り越えて結ばれる男女の姿が描かれています。
この主題歌は、『みどりの風に おくれ毛が――』という印象的な一節で始まり、『三百六十五夜の 愛の二人に 朝が来る』という言葉で静かに幕を閉じます。男女の掛け合いによって、一年という時間の積み重なりが、会話のように自然に歌われていく構成になっています。
タイトルの “三百六十五夜” は、日本の季節の節目を示す、“十五夜” や “八十八夜” とは異なり、「一年中」「日々の積み重ね」を象徴する言葉として用いられているようです。
メロディは軽快で、特に歌い出しの旋律は印象深く、作曲した古賀政男の了承を得た上で、別の作曲家が全く異なる歌(『月よりの使者』)にも用いているほどです。また、間奏の美しさも特筆すべき点で、間奏部分だけでも一つの「独立した歌」のように感じられます。
リンク先解説の中では、『古賀メロディの傑作の一つなのに、最近では知る人も少なくなりました』と書かれています。確かにその通りで、こうした名曲が時代の推移と共に、静かに忘れ去られていくことは本当に残念で、一抹の寂しさを覚えます。
時代とともに、歌のスタイルそのものが変貌し、後の時代感覚からすると、過去の古い歌が時代遅れで野暮ったく思われるのは避けられませんが、本当に良い歌には時代感覚を超えて人の心に残るものがあるはずです。この歌もそうした力を備えた一曲で、昭和を代表する作曲家だった古賀政男の歌の中でも、屈指の名曲だと思います。
しかし考えてみると、同じ芸術でありながら絵画や彫刻では時代経過と共に、昔の有名作品の評価が落ちるという話はあまり聞きません。むしろ、より古い作品の方が評価されているような気がします。また、音楽でもクラシックや童謡・唱歌などは流行り廃れがあまり無いようです。
歌謡曲にも、一時的な流行を超えて長く愛され続ける、いわゆる普遍性を持つ歌もありますが、その数は限られています。何故、表題曲のような、いわゆる流行歌と呼ばれる系統の歌だけが時代の推移とともに忘れられていくのでしょう。
そこには単なる「好みや世代差」、「時代遅れ」等の言葉では説明しきれない、もう少し構造的な理由があるように思えます。
表題曲の話からは少し外れますが、ここからは【いわゆる流行歌が、なぜ時代と共に人々の記憶から消えていきやすいのか】、について少し掘り下げて考えてみたいと思います。(こうした話にご関心のある方は、下記リンク先の記事を、合わせてご覧いただければ幸いです)
【流行歌は、なぜ時代と共に人々の記憶から消えていきやすいのか】(リンク)
『三百六十五夜』という歌の紹介から、話が大きく広がり過ぎてしまいました。先のリンク先では、制度や仕組みの話を重ねてきましたが、結局、歌が生きる場所は一人ひとりの人生の記憶なのだと思います。
絵画のように、静かに壁に掛けられ、時代を越えて眺められる芸術とは違い、歌は時間の流れの中でしか存在できません。だからこそ、歌は忘れられやすいとも言えます。
同時に、人の人生とこれほど深く結びつく芸術もないでしょう。忘れられたように見える歌も、ただ静かに、思い出される時を待っているだけなのかもしれません。
ひと昔前には、表題曲冒頭の『みどりの風に おくれ毛が やさしくゆれた 恋の夜』、このメロディを聴いただけで、懐かしさがこみ上げてきて、涙する方が大勢おられました。なぜ人はこれほど心を揺さぶられるのでしょう。
私たちは、歌を通して自分自身の人生を振り返り、そして、その歌を聴いていた頃の自分を思い出すことが多いものです。その頃どんな場所にいて、誰のことを思い、身近にはどんな人達が居たのか。歌は記憶の呼び水、記憶の扉を開く鍵のようなものです。
かけがえのない、心の糧(かて)となる歌の記憶を無くさないためにも、名曲やその断片が、時代に応じた形で自然に再生産され、次の世代へ手渡されていく仕組みが生まれることを願っています。
<<参考音源>>
『三百六十五夜』を歌う緑咲香澄(リンク)
(注)歌っている緑咲香澄さんは、音声合成ソフトによる架空の歌手(キャラクター)で、実在している歌手ではありません。
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