2026-03-06

NSP の「八十八夜」(転換点の叙情――時代を超えて、若者の心に響く歌)

八十八夜(リンク)
 明日、嫁ぐという夜。静まり返った部屋に突然電話が鳴る。受話器の向こうにいるのは、忘れたはずの人――。1978年に発表された フォークグループNSP の、『八十八夜』は、人生の転換点での一瞬の心の揺らぎを描いた歌でした。


1.NSPは「叙情派フォーク」の代表的存在だった
 1960年代に登場した初期のフォークは、社会に向けて反体制や反戦など、政治的なメッセージを訴えかける歌が多く、その代表格だったのが、ボブ・ディランの『風に吹かれて』でした。

 しかし、時代が進むにつれこうした傾向は薄れていきます。日本では、70年代半ばになると、フォークは次第に社会批評の色を薄め、より私的で日常的な世界へと向かっていきます。やがてそれは「ニューミュージック」と呼ばれるようになりました。

 この時代には、より都会的で洗練された「個人的・日常的」な世界観を描く音楽へと、若者の趣向が変化していました。
 NSPの音楽は、その流れの中にありながらも、華やかさより静かな感情を大切にする点で、独自の位置を占めていました。

 内省的な世界観を持ち、素朴で繊細な日常を歌い上げることで、若者たちの共感を集め、その歌は「叙情派フォーク」と呼ばれました。
 1978年に発表された『八十八夜』は、そんな彼らの魅力がよく表れた一曲です。


2.『八十八夜』の歌では、結婚へ揺らぐ女性の気持ちが描かれた
 『八十八夜』は1978年にリリースされた歌で、繊細なタッチで描かれた歌詞と、弾むようなメロディが特徴的です。

 物語は、結婚前夜という人生の方向が定まる転換点を舞台にしています。明日結婚を控えた女性の心の揺れを描いていますが、幸せへ踏み出すはずの前夜にかっての恋人から電話がかかってきます――。それは祝福の夜に差し込む、過去からの影のようでもあります。

 携帯電話のない時代、固定電話の呼び出し音は今よりもはるかに重みを持っていました。その一音が、封じたはずの記憶を呼び覚まし、女性の心は静かに揺れます。

 この微妙な心理の揺れを感じさせているのが、リーダーであり作詞・作曲を手がけた 天野滋 (あまのしげる)の歌声です。どこか不安を含んでいるような、少し不安定で、しかし優しい歌声。それが聴き手自身の青春の記憶をも呼び起こし、歌の情景と重なります。

 この歌の魅力は、劇的な出来事ではなく、決断の前夜に差し込む “迷い” そのものを描いている点にあります。結婚という未来と消えきらない過去。
 その狭間で揺れる心を、淡々と、しかし確かな温度で伝えていますが、歌詞最後の下記フレーズでは、無理に自分に言い聞かせているような気配を漂わせ、切なさが募ります。

    もうすぐ八十八夜  もうすぐ暖かくなる
    もうすぐ八十八夜  もうすぐ幸せになる

 ただ女性側からすると、このエピソードは、男の身勝手が詰まった話のように思えるのかもしれません。
 
 NSPの曲は、感性に訴えかけるものが多いのですが、中でもこの『八十八夜』が一番好きだと言う人が少なくありません。
 また、リンク先映像の冒頭に出てくる “野の花が風に揺れる風景” が、この歌の雰囲気によく合っていて、聴いている人の情感を高めています。


3.グループ名「NSP」の意味
 ところで、グループ名のNSPというのは、その意味が分かりにくいのですが、これにはちょっとしたエピソードがあります。

 元々は、ニュー・サディスティック・ピンク(New Sadistic Pink)というのが、1972年に結成した当時の正式バンド名で、この頃はロック系のグループだったようです。

 それが、フォーク系のグループに転じるに際し、当初のグループ名では歌のイメージに合わないということで、『NSP の新解釈ゲーム』というユニークな試みを行っています。

 そこでは、“ネコ・サル・ペンギンが優勝。その後、Non Stop Progression、Natural Spirit Paradise、Nasa Shopping Plaza などがキャッチコピーに使われた” となっています。しかし結局は、特定の意味に固執せず「NSP」という略称のままにしたようです。

 このNSPメンバーがプロになったのは、岩手県一関の工業高専在学中、仲間と組んで学園祭で演奏していた時に、レコード会社から誘われたことがきっかけ、だったそうです。

 その後、一度解散し、2002年にオリジナルメンバーで再結成します。再結成後も精力的に活動を続けましたが――その数年後にリーダーで表題曲などを作詞・作曲し、歌い手でもあった天野滋が病気で急逝されました。


4.NSPの歌は、時代を超えて若者の心に響く
 NSPには、他にも『夕暮れ時はさびしそう』という大ヒット曲がありました。この曲は今の時代に持ってきたとしても、極めてユニークな歌で、『八十八夜』以上にセンチメンタル色が濃く感じられます。

 他には類が無いような歌で、歌詞、メロディ共に斬新で印象深いのですが、この曲は現在も岩手県一関市の、「JR一ノ関駅 新幹線ホーム」の発車メロディに使われているようです。

 表題曲タイトルの「八十八夜」は、立春から数えて八十八日目。初夏の訪れを告げる節目の日です。霜の心配がなくなり、農作業が本格化する時期。
 自然にとっての転換点であり、人の心にとってもまた、ひとつの節目を象徴する言葉です。歌のタイトルを「八十八夜」としたのは、描いているのが「人生の転換点」であることを現わすためだったのでしょう。

 この曲『八十八夜』は、見方によっては「センチメンタルで感傷的過ぎる歌」と、少しネガティブに捉えられる方もおられるかもしれません。
 しかし、私は、この曲は 青春の甘さ を歌ったのではなく、青春の 不可逆性 を、そっと示した歌なのではないかと思うのです。

 季節が移ろうように、人の心もまた揺れ動きます。早いもので、この『八十八夜』の歌が流行った頃から、今では半世紀近くの歳月が過ぎようとしています。
 けれど、NSPの歌は 50年という長い時代経過をあまり感じさせません。

 彼らの歌が色褪せないのは、流行を追った歌ではなく、心の揺らぎそのものを歌っていたからなのかもしれません。

 天野滋は、独特の感性を持った優れた音楽家でした。その早世が惜しまれますが、彼の残した青春の感性溢れる歌は、これから先も時代を超えて、若者達の心の奥に、深く響き続けるのではないでしょうか。


<<参考音源>>
NSP『夕暮れ時はさびしそう』(リンク)

NSP『面影橋』(リンク)
 このサイトでも既にご紹介した『面影橋』という曲も、天野滋が作詞・作曲した歌です。

 


<<参考情報>>

・「八十八夜」は雑節のひとつ
 この歌のタイトルになっている「八
十八夜(はちじゅうはちや)」は雑節のひとつで、立春を起算日(第1日目)として88日目(立春の87日後の日)、太陽暦では平年なら5月2日にあたります。


 八十八夜は、霜降りがほとんどなくなり、農作業を本格的に始める目安となっていました。こういった季節の変わり目を表現した言葉は数多くあり、日本では「二十四節気、七十二候」と言われ、自然の変化を非常に細かく、繊細にとらえて暮らしていました。

 元々『気候』という言葉自体が、上述の二十四節気、七十二候から生まれたものですが、八十八夜にあたる5月初旬は、七十二候では【第十八候 牡丹華 ぼたんはなさく】(穀雨、末候)になります。

 ちなみに5月5日からは【第十九候 蛙始鳴 かわずはじめてなく】立夏、初候)に変わります。このように二十四節気では15日ごと、七十二候では5日毎に季節がめぐる訳ですから、昔の人がいかに自然の変化を敏感に感じ取っていたかが分かります。

  

0 件のコメント: