2026-04-05

また君に恋してる (一度離れた恋が再び蘇る感情を描いた歌――その “きっかけ” を考えてみた)

 また君に恋してる(リンク)

 人は、一度離れた相手に、もう一度恋をすることがあります。しかもそれは、かってよりも深く、静かに、確かなものとして――。


 『また君に恋してる』は、そうした感情を描いた平成の名曲です。年月を経て増す「愛おしさ」や「再会の喜び」が表現されていますが、単なる恋愛感情を超え、より成熟した深い愛のかたちが、静かに歌われています。 


1.楽曲の成立と背景
 平成19年(2007)に麦焼酎「いいちこ」のCMソングとして制作され、当初は、ビリーバンバンが歌っていました。しかし、後にリリースされた坂本冬美のカバーが広く知られるようになり、こちらはCD売上が累計37万枚以上、配信は100万ダウンロードを超えています。歌謡曲的な要素も感じさせるポップス風の楽曲だったため、幅広い世代に受け入れられました。


坂本冬美が歌う『また君に恋してる』(リンク)
 テレビのCMソングでこの曲が流れ始めた当初、“これは、いったい誰の声だ?”、という問い合わせが殺到したそうです。演歌歌手でありながら、極力演歌っぽさを抑えた歌い方だったため、坂本冬美の歌唱だということに気付かない人が多かったようです。


 この歌は、タイトルや歌詞からすると、何らかの事情で一時疎遠になった相手との恋が蘇ったことを歌ったものと読み取れます。男性側の視点では「かけがえのない人」として愛を再確認したロマンチックな歌のように思えますが、一方で、女性からの視点に立つと、男性の身勝手なふるまいが目に余るのかもしれません。

 


2.歌詞に込められた視点
 作詞を手がけた松井五郎は、この歌を熟年層に向けて書いたと語っています。冒頭を視覚的な情景描写から入り、続いて感覚的な表現へと移行させる構成には、確かな意図が感じられます。


 また、歌詞を注意深く見ていくと、次のような箇所があります。
    また君に恋してる  いままでよりも深く
    まだ君を好きになれる  心から


「また」と「まだ」という言葉の違いが印象的です。「また」は再び訪れた感情、「まだ」は途切れず続いている思いを示します。この微妙な差異が、聴き手に自然な余韻を残します。

 


3.疎遠になった恋が蘇ったきっかけ
 ところで、一時疎遠になった相手との恋が蘇った “きっかけ” が何だったのかは、この歌詞には書かれていません。これは、私の勝手な憶測に過ぎませんが、この歌の主人公には、人生観が変わるような大きな出来事があり、その体験を経て、今までの生き方を見直すようになったのではないか、という気がします。


 そういった出来事としては、重い病気や事故での大怪我、或いは地震・洪水といった予期せぬ自然災害での被災・罹災など、様々な事態が思い浮かびます。中でも、最もあり得る例として考えられるのは、大きな病の経験かもしれません。


 周囲を顧みず、仕事に没頭していたような人が大病に侵され、今までの人生の意味を考え直した、という話をよく耳にします。そこで人生観が変わり、その後の生き方を根本的に変える。一度は離れた主人公の恋が蘇ったのには、こういった事情があったような気がします。

 


4.俳人正岡子規が書いた日常の楽しみ
 こうした「失って初めて気づくもの」という感覚は、文学作品の中にも繰り返し描かれています。私はこの歌から明治の俳人、正岡子規の『墨汁一滴』という日記に書かれた「楽しみ」という一節を連想しました。


 子規は晩年、脊椎カリエスという病に侵され、最後の数年間は病床での生活を余儀なくされ、身動きのできない状況でした。その苦しい生活の中で、元気だった頃のちょっとした楽しみが、いかに宝物のように貴重なものだったかを、しみじみと回想し、その「楽しみ」を列挙しています。


【正岡子規 墨汁一滴(三月十五日) 楽しみ】
・散歩の楽(たのしみ)、
・旅行の楽、能楽演劇を見る楽、寄席に行く楽、見せ物興行物を見る楽、
・展覧会を見る楽、花見月見雪見等に行く楽、
・細君を携へて湯治とうじに行く楽、
・紅燈(こうとう)緑酒(りょくしゅ)、美人の膝を枕にする楽、
・目黒の茶屋に俳句会を催して、栗飯の腹を鼓こする楽、
・道灌山に武蔵野の広きを眺めて、崖端(がけはな)の茶店に柿をかじる楽、
・歩行の自由、坐臥(ざが)の自由、寐返りの自由、足を伸す自由、
・人を訪ふ自由、集会に臨む自由、厠(かわや)に行く自由、
・書籍を捜索する自由、
・癇癪(かんしゃく)の起りし時、腹いせに外へ出て行く自由、
・ヤレ火事ヤレ地震といふ時に、早速飛び出す自由、


 ――総ての楽(たのしみ)、総ての自由は尽き、ことごとく余の身より奪ひ去られて僅かに残る一つの楽(たのしみ)と一つの自由、即ち飲食の楽と執筆の自由なり。


 願くは神、先づ余に一日の間ひまを与へて、二十四時の間(あいだ)自由に身を動かし、たらふく食を貪むさぼらしめよ。・・・・


 列挙している「楽(たのしみ)」の項目の中で、最初の方は、誰にでもある楽しみですが、後半は自分の意思で自由に身を動かせる事がいかに貴重なことだったのかを痛感したような項目が多くなっています。これは、今も大病や大怪我などで入院した人達の多くが、
身に染みて思い知らされる気持ちでしょう。



5.極限の状況を体験した人物の回想
 この感覚を、さらに極限まで押し広げたエピソードがあります。
 ドストエフスキーの『白痴』という長編小説の中で、主人公であるムイシュキン公爵の友達の回想として語られていますが、実際には著者であるドストエフスキー自身の実体験であったとされています。


 ドストエフスキーは若い頃、空想的社会主義サークルに加入していたことから、官憲に逮捕され死刑判決を受けますが、銃殺刑執行直前に皇帝ニコライ1世からの特赦が与えられて、生還しています。(なお、この一連の特赦は全て仕組まれたものでした)


 後にこの時の体験を基に、死刑執行直前の囚人の心の中を語ったのが、著名な次の一節です。長い引用になっていますが、世界文学史上でも特筆されるほど有名な箇所なので、略すことなくそのまま記しています。
(死刑執行を受ける人物の、その執行五分前の心の中が詳しく語られています。)


【ドストエフスキー著 『白痴』の一場面】(リンク)
  ――死刑執行を受ける人物の、その執行五分前の心の中の記述――


 この記述内容は、虚構の作り話ではなく、著者が実際に体験した稀有なエピソードをもとにして書かれていますので、語られている言葉の一言一言には大変な重みがあります。


 死刑執行直前の人物が、「もし生命が返ってきたなら、一分一分を無駄にせず生きるだろう」と強く願う――その切実な思いは、読む者の胸に深く刻まれます。


 しかし、この後の文章では、奇跡的に生還して『無限の人生』を贈られたはずの主人公が、実際にはその後の人生で、一分一分を『きっかりと計算して』暮らすことはなく、実に多くの時間を空費してしまったと述懐しています。

 


6.誰もが持っているのに気づかぬ宝物
 人間とは、やはりこうした存在なのかもしれません。それが故に歴史上同じような過ちが繰り返されているのでしょう。それは、今の時代も、いや自分自身も含め、誰であっても同じなのだと思います。


 私たちが今持っている「宝物」。それは体を自由に動かせることであったり、自由に誰かと会えること、或いは残された時間が、先の主人公の5分間に比べて無限と思えるほど十分であったり・・・、そうした当たり前の中にある「宝物」のありがたさを改めて考えさせられます。


 歌の話からは、かけ離れてしまいましたが、表題曲『また君に恋してる』は、静かな温かみを感じさせる恋愛の歌であると同時に、失いかけたものの価値に気づく歌でもあります。だからこそ、その旋律は穏やかでありながら、どこか切実に胸に響くのでしょう。
 
 人生観が変わるような大きな出来事に遭わなくても、何らかの深い経験が、その契機 になることもあるでしょう。このような歌を聴くこと自体が、これまでの自分の人生を見つめ直す、“小さなきっかけ” を与えてくれるのかもしれません。

 


<<参考音源>>
ビリーバンバンが歌う『また君に恋してる』
・ビリーバンバンは、実に淡々と自然体で歌っていて、情感を強めに出している「坂本冬美版」とは異なり、静かで落ちついた情緒といった趣で、別の味わいがあります。


・2007年この楽曲制作の際、歌詞は松井五郎に依頼することが決定していましたが、曲は複数のミュージシャンの持ち寄った楽曲候補から、誰が書いたのか知らせずに曲選びを行って決定することにしていました。


 その結果、ビリーバンバンのバック・バンド・メンバー(ギタリスト)である森正明が作った、この曲が選ばれています。

 


<<参考文献>>
・岩波文庫『墨汁一滴』 正岡子規 著
・旺文社文庫『白痴(第一編)』 ドストエフスキー 著 小沼文彦 訳

 

 

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