「おもいで」という言葉は、歌やエッセイによく似合うからでしょうか。この言葉を題名やテーマにした作品は、数えきれないほど作られてきました。
今回ご紹介する2曲も、この言葉を題名にした歌です。いずれも昭和中期の作品で、大ヒットした楽曲ではありませんが、自分の青春期を静かに思い起こさせてくれる、印象深い歌です。聴く人の心にも、深い余韻を残してくれます。
1.青春期の短い恋と別れを描いた曲「おもいで」
石川皓也作曲の「おもいで」(歌:リンク)
NHKラジオ歌謡は、昭和21年(1946)8月から37年(1962)3月まで、全846曲(日本ラジオ歌謡研究会調べ)が放送されたそうです。これだけ多くの曲がラジオで流されていたわけですから、今ではほとんどの曲が忘れ去られていたとしても無理はありません。
昭和28年(1953)に生まれたこの歌もそうした曲の一つですが、リンク先の二木楽団の名演奏によって見事に蘇っています。出だしの曲調が重厚で深みがあり驚きますが、オリジナルでの歌い手がシャンソン歌手の高英男だったということもあってか、曲全体はシャンソン風に感じられます。
作曲したのは石川皓也(あきら)です。石川は、ビゼーの曲をベースに編作曲した『小さな木の実』で知られていますが、この『おもいで』の曲も、その創造力が遺憾なく発揮されていて、静かで深い旋律が心にしみ入ります。
一方、作詞した中原淳一は、太平洋戦争が始まる前年(昭和15年)に、宝塚歌劇団のトップスターだった葦原邦子と結婚しています。
その数年後に召集され軍隊も経験していますが、中原は、性格的にも経歴的にも、最も軍隊という組織には合わない人だったように思えます。
中原の個性や、それまでの活動を考えると、軍隊という組織の中でどのような思いを抱いていたのか、察するに余りあります。
戦後は多彩な活躍を見せました。編集長として女性誌の基礎を作っただけでなく、画家、詩人、ファッションデザイナー、スタイリスト、インテリアデザイナー、人形作家など、数多くの分野において、現代につながる先駆的な存在となっています。
中原は、現在の「少女漫画の美人像」にもつながるような、独特の女性像を描き出した人物としても知られています。
『おもいで』の歌詞では、青春期の短い恋と別れをテーマとしていますが、この歌詞で描かれている相手の女性は、少女漫画主人公のような長いまつげに大きな瞳の人だったのでしょうか。
2.元は平尾昌晃自身が歌っていた曲「おもいで」
平尾昌晃作曲の「おもいで」(歌:リンク)
先の石川皓也作曲による『おもいで』の曲が創られたのが昭和28年。それから12年後の昭和41年(1966)に同じ題名で平尾昌晃が作詞・作曲したこの『おもいで』の曲が生まれています。
歌い手は布施明です。布施の代表曲になったのは『霧の摩周湖』ですが、表題の『おもいで』はその半年ほど前にリリースされています。リンク先の演奏では、霧の中に消えていくような雰囲気を醸し出す楽器が使われていて、この歌の世界へ、そっと引き込まれていくような気がします。
この『おもいで』の曲は、元々作曲した平尾自身が歌っていたのですが、平尾は後に「売れなかったから布施明に歌ってもらった」と語っています。
自分自身が歌ったものは売れなかったのですが、それでも曲そのものには自信を持っていたのではないでしょうか。
平尾は『おもいで』を布施に歌わせるにあたって、一つ条件を付けたと語っています。当時の布施明は、圧倒的な声量を持ちながらも、どちらかといえば明るく爽やかなカンツォーネや洋楽ポップス寄りの歌い方をしていました。
平尾は、布施の従来の歌い方ではこの歌の持つウェットな情感が表現しきれないと考え、平尾と同じ歌い方をするよう要求しました。
そして、細部にわたるまで徹底的に歌い回しや息づかいを指導しました。布施は練習を重ねて、これを忠実に守って歌い、ヒットにつながったということです。
3.名曲「霧の摩周湖」誕生秘話
ところで、平尾・布施コンビの代表曲となった『霧の摩周湖』は、いかにして生まれたのでしょうか。平尾自身が後年語った思い出(*1)によれば、次のような興味深いエピソードがあります。
平尾は『霧の摩周湖』(1966年発売)を作曲した当時、一度も実際の摩周湖に足を運んだことがなかったそうです。
若くして結核を患い、当時は闘病や療養を挟みながら音楽活動を続けていた時期でもあり、北海道の奥深くにある摩周湖は、まだ見ぬ憧れの地でした。
この名曲が生まれたのは、平尾が暮らしていた神奈川県茅ヶ崎の自宅でした。作詞家の水島哲、歌手の布施明、そして平尾らが集まり、杯を酌み交わしながら次作の相談をしていました。
布施明のマネージャーが「次は海の歌はどうだ」と提案したところ、平尾は「いや、布施くんには爽やかな海は似合わない。もっとこう、翳(かげ)りがあって深い、湖がいい」と即座に反対しました。
それに呼応するように、水島哲が「じゃあ、霧の摩周湖なんてどうだろう」とタイトルとイメージを提案したことで、あのドラマチックな世界観の歌が一気に動き出したそうです。
平尾がその場でギターを抱え、イントロやメロディラインを実際に弾きながら音を紡ぎ出していきました。
作詞の水島哲や、歌い手の布施明らが見守る中、ギターの響きを確認しながら「ここはもっと盛り上げたほうがいい」「こういうフレーズはどうだ」と、その場の熱気の中でアイデアを出し合って形にしていったそうです。
じっくり机上で作ったというよりも、その夜の独特の空気感と酒席の勢いの中で一気に骨組みが作られたため、平尾にとっても非常に思い出深いエピソードとして記憶に残っていたようで、後にこの時の話を楽しそうに語っています。
4.エッセイの中に書かれた「おもいで」
ここまで二つの『おもいで』という歌を聴いてきましたが、考えてみれば、「おもいで」は歌だけの題材ではありません。
文学の世界でも、過ぎ去った時間や、その中に残された一瞬の記憶は、繰り返し描かれてきました。
次にご紹介するのは、エッセイの名手・向田邦子の作品の一つです。タイトルが『おもいで』となっているわけではありませんが、向田がこの作品を書いた時点から20年ほど前の「思い出」について書かれています。
正確には「思い出」というより、電車の窓から目撃した一瞬の記憶について語った、目撃談に近い印象深い話です。
<引用> 向田邦子 著「中野のライオン」
【私が見たのは、一頭のライオンであった。
お粗末な木造アパートの、これも大きく開け放した窓の手すりのところに、一人の男が座っている。三十歳位のやせた貧相な男で、何度も乱暴に水をくぐらせたらしいダランと伸びてしまったアンダー・シャツ一枚で、ぼんやり外を見ていた。
その隣にライオンがいる。たてがみの立派な、かなり大きい雄のライオンで、男とならんで、外を見ていた。(*2)】
向田が見たのは、東京の中野駅から高円寺寄りを走る中央線の車窓からの光景です。当時の中央線は冷房がなく、窓が大きく開いていたので、車内から外の様子がかなりよく見えたようです。
この話を載せたエッセイは、1979年春季号の『別冊小説新潮』で発表されていますが、本文では「二十年ほど前」の出来ごととして書かれています。したがって、おおむね1950年代末~1960年前後の出来ごとと考えるのが自然です。
なお、縫いぐるみのライオンだった可能性については、次のように否定しています。
【私は、ねぼけていたのだろうか。幻を見たのであろうか。そんなことは絶対にない。あれは、確かにライオンであった。縫いぐるみ、と言われそうだが、それは、現在の感覚である。二十何年前には、今ほど精巧な縫いぐるみはなかった。】
この目撃談で不思議なのは、周囲の乗客が誰一人として騒がなかったことです。このため、向田自身も、「本当にライオンだったのだろうか」と自分の記憶を疑います。
【すべてはまたたく間の出来ごとに見えたが、この瞬間の自分とまわりを正確に描くことはすこぶるむつかしい。
私は、びっくりして息が詰まったようになった。当然のように、まわりの、少なくとも私とならんで、吊革にブラ下がり、外を見ていた乗客が、「あ、ライオンがいる!」と騒ぎ出すに違いないと思ったが、誰も何ともいわないのである。(*3)】
5.「中野のライオン」の後日談
この話が興味深いのは、このエッセイが雑誌で発表された後、実際に、当時の中野でライオンを飼っていたという人から、向田に電話がかかってきたことです。それどころか、向田は電話してきた人と直接会って、詳しい話を聞いています。
それによると、元々はその人の姉が新宿御苑前の酒店で飼っていた子ライオンで、その姉が亡くなり引き取ったそうです。はじめは猫ほどの大きさだったのが、向田が見た当時は百キロ近い体重がありました。
また、このライオンについては、当時も一部の人の間では知られていて、詩人の草野心平や作家の串田孫一が随筆に書いてもいた、ということも分かりました。
なお、向田の一瞬の観察記憶にも誤りがあり、雄だと思っていたのが実際には雌で、木造アパートの2階にいたと思っていたのも、実は1階だったようです。
向田が見たライオンは確かに存在していました。しかし、その姿を記憶した向田の中には、いくつかの「違い」も残っていました。
6.見ていても気がつかない不思議
半世紀以上前の出来ごととは言え、「大都会の木造アパートで、ライオンを飼っていた人が居た」というのは、驚くべき話です。
ただ、この話を書いた向田邦子が本当に言いたかったのは、同じ光景を一緒に見ていたはずの大勢の人たちが、何故黙っていたのかという点への疑問ではなかったかと考えられます。
黙っていた理由として考えられるのは、「信じられない光景だったので、見まちがいだろうと自分の中で処理してしまった」、「その光景が目には入ってはいたが、ぼんやりと見ていただけなので、脳の中で現実の光景として意識されなかった」などの理由が思い浮かびます。
向田自身は、別のところで次のように述べています。
【誰も気のつかない一瞬というものがある。見えても不思議がないのに、見えないことがあるのである。それが、ほんのまたたきをする間の出来ごとであったりすると、まさか十人が十人、一緒にまたたきをするわけでもあるまいが、十人いても、見逃すことがあるらしい。(*4)】
向田は、この後【百人見て、一人見ないこともあるなら、一人が見て百人が見なかったことだって、絶対あり得ないとは言えない。】とも述べています。
単に見ることと、それを見て自分で考えることには、根本的な違いがあります。情報があふれる現代では、私たちは「見たもの」や「読んだもの」を、そのまま自分の考えとして受け入れてしまうことがあります。しかし、それは本当に「自分で考えた」ことになるのでしょうか。
もっとも、自分で本当に考えるとは具体的にどういうことなのか、そのこと自体が大変難しい概念であることも確かです。
得られた情報を鵜呑みにするのではなく、その内容を自分なりに咀嚼し、複数の情報源を照らし合わせながら、自分自身の頭で考え抜いてみる。私は、それが「考える」ということなのではないかと思っています。
インターネットやSNSが普及した今では、何か珍しいものを見れば、すぐに写真や動画が撮られ、瞬く間に多くの人へ伝わっていきます。それでも、人間が「見たものを見たまま認識する」とは限りません。
目の前にあるものを見ても、自分の先入観や関心の有無によって、そこから受け取るものは変わります。「見る」ということと、「気づく」ということは、どうやら同じではないようです。
7.歳月を重ねて初めてその価値に気づく
記憶や思い出というのは、一人称であり単眼です。先にご紹介した「おもいで(石川皓也作曲)」の曲の歌詞に描かれている記憶も、主人公と相手(恋人)の記憶が同じとは限りません。
むしろ、一緒に同じ光景を見て、同じ経験をしていたとしても、互いに全く違った思い出として記憶している可能性の方が高いのかもしれません。
「過去についての思い出は、事実についての思い出ではなく、事実だと思い込んでいたことについての思い出だ。」と言われることがあります。
それが完全な事実ではなかったとしても、悲しい思い出であったとしても、思い出として心に残っていること自体が、一つの幸せなのではないでしょうか。
若い頃には、それがただの「過去」にしか思えなかった出来ごとも、歳月を重ねると、かけがえのない「おもいで」になっていることがあります。
思い出というものは、歳月を重ねて初めて、その価値に気づくものなのかもしれません。
<<参考音源>>
・布施明『霧の摩周湖』(歌:リンク)
<<参考情報>>
(*1) 名曲「霧の摩周湖」誕生秘話の「情報源」
・インターネット上に、『平尾昌晃×布施明 ~日本歌謡界を彩る 2つの才能の出逢い』、というタイトルで、平尾昌晃自身が詳しく語っていた映像がありました。ただ現在、この映像は公開されていないようです。
<<参考文献>>
・ちくま文庫 『向田邦子ベスト・エッセイ』
向田邦子 著、向田和子 編 (2020年4月10日 第2刷発行版)
(*2)の箇所: P-175より引用
(*3)の箇所: 同上
(*4)の箇所: P-172より引用
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