2026-08-23

加山雄三の「旅人よ」(明治初期、日本奥地を旅した英国女性の記録を読む)

旅人よ(歌:リンク)

 幕末維新の嵐が未だ冷めやらぬ明治初期、一人の英国女性が、若い日本人通訳を伴っただけで、外国人がほとんど足を踏み入れない日本の奥地へ分け入っています。
 東北の険しい山間部を通り、北海道のアイヌ集落まで踏み込んでいますが、今回はその旅の記録を辿りながら、改めて「旅」とは何なのかを考えてみたいと思います。
 


1.この曲が生まれた時のエピソード
 この曲を聴いていると、清々しい(すがすがしい)気持ちになり元気づけられます。
 『旅人よ』は弾厚作の名前で加山雄三が作曲。岩谷時子の作詞で、昭和41年(1966)に発売されました。加山自身が歌っていますが、他にも井上陽水やトワ・エ・モア、さだまさしがカバーしています。

 加山雄三の曲はほとんど岩谷時子が作詞していますが、加山がメロディーを先に作り、それに岩谷が後から詞をつける、いわゆる曲先(きょくせん)方式での制作が多かったようです。

 表題曲『旅人よ』については、移動中の車の中で、加山が出来上がったばかりの譜面を岩谷時子に見せたところ、岩谷がその場でこの名詩を書き上げたというエピソードも伝えられています。

 歌詞に描かれる風景は、特定の土地を指すというより、聴き手それぞれの心に浮かぶ「広大な草原」や「人生の旅路」といった、抽象的で普遍的な風景なのだと思います。
 岩谷が、加山の創ったメロディーが持つ壮大さや哀愁から、インスピレーションを膨らませて結晶化させたものといえます。


2.世界を動かした旅の記録
 『旅人よ』の歌詞には、「草は枯れても いのち果てるまで」という印象的な一節がありますが、若い頃の旅での様々な体験や人とのめぐり会い、その旅の中で肌で感じた感動は、その人の心の中に生涯残り続けるものです。

 古今東西の歴史を紐解くと、旅の記録が後世に大きな影響を与えた例は数多くあります。中でも有名なのは、24年間にわたりアジア各地を旅し、ヨーロッパへ中央アジアや中国を紹介したマルコ・ポーロの『東方見聞録』や、物語『西遊記』のモデルとされる、唐代中国の僧「玄奘三蔵(*1)」が、シルクロードやヒンドゥークシュ山脈を越えてインドに至った記録『大唐西域記』などでしょう。

 一方、日本でも江戸時代の俳人「松尾芭蕉」は、元禄時代初期に弟子の河合曾良を伴い江戸を発ち、東北から北陸を経て美濃国の大垣までを巡った旅を記した紀行文『おくのほそ道』を書き残しています。


3.イザベラ・バードの『日本奥地紀行』
 こうした著名な紀行文書に比べると知名度は低いのですが、明治初期の日本奥地を、異国の女性が徒歩や馬などで旅した貴重な記録があります。
 イギリスの女性旅行家イザベラ・バード(*2)が記録した『日本奥地紀行』では、東京から日光、東北地方を縦断し、北海道(蝦夷地)に至るまでの道中で見聞きした当時の日本の自然、生活、風俗、そしてアイヌの文化などが克明に描かれています。

 彼女が北日本を旅したのは明治11年(1878)6月から9月にかけてで、このときバードは46歳でした。横浜を出発し、東京、日光、会津、新潟、山形、秋田などの東北の険しい山間部を通り、豪雨に崩れゆく山を越え、濁流の川を何度も渡り、函館から北海道(アイヌの集落)までを移動しています。
 
 明治11年(1878)といえば、前年に西南戦争(1877年)が終結したばかりであり、国全体が大きな変動の中にありました。
 その時期に、欧米の女性が、若い日本人通訳の伊藤鶴吉を伴っただけで、外国人がほとんど足を踏み入れない日本の奥地へ分け入ったことは、当時としては驚くべき旅だったと言えるでしょう。

 一方で、バードの記録からは、当時の日本社会が、暴力的な危険性が比較的少ない社会だったこともうかがえます。維新の動乱期を経てもなお、江戸時代以来の社会秩序や生活習慣が、地方の農村や山間部にも強く残っていました。この当時の日本は、世界的にみれば「驚くべき平和な社会」だったようです。


4.当時の日本の道路状況や衛生状態の劣悪さ
 イザベラ・バードは、英国王立地理学会の会員でもあり、単なる観光ではなく、農民の労働、食生活、信仰、家族関係など、いわゆる「普通の人々」の生活に焦点を当てた旅をしています。

 日本人が当時の社会の中に埋没していて気付けなかった、あるいは隠そうとしていた「日常のありのままの姿」を、バードが外部者の視線から記録しています。

 彼女は当時の日本の道路状況の劣悪さを繰り返し指摘しています。道は泥濘(ぬかるみ)にまみれ、橋は壊れかけ、馬車が通れるような文明的な道路は当時の日本にはほとんどありませんでした。

 また、日本人の劣悪な食生活、住居の暗さ、湿気、衛生状態の悪さ(ノミやシラミ、未整備の下水)に対しては、強い嫌悪感を露わにしています。しかし、その一方で彼女は、そのような環境でもたくましく生きる日本人の精神力を認めてもいました。

 現在の日本は、世界的にみても清潔な生活環境にあるとされていて、今の我々は昔からそういう社会であったように思いがちです。
 しかし、生活環境が改善されていったのは歴史的に見ればつい最近のことで、それまでは決してそんなに清潔な生活環境で暮らしていたわけではありません。こうしたことが、バードの記録などを読むと、よく分かります。


5.日本人が見落としていた根源的な風景
 バードは、栃木県の横川という所では、子ども達を見て次のように述懐しています。
 【群衆は言いようもないほど不潔でむさくるしかった。ここに群がる子どもたちは、きびしい労働の運命をうけついで世に生まれ、親たちとおなじように、虫に喰われ、税金のために貧窮の生活を送るであろう。】

 約150年前、日本奥地の住民はまだ着の身着のまま。朽ち果てそうな荒れ家にて何とか命を紡いで生きている人達が多かったのです。時代劇でイメージされる暮らしとは大違いですが、しかし、それこそが真実だったのでしょう。(*3)

 このように、イザベラ・バードの『日本奥地紀行』は、「欧米の文明という基準で見た、明治初期日本の過酷な現実」を浮き彫りにしています。
 ただ、バード自身は意識していなかったと思いますが、冷静に考えてみると、その記述の多くが、バード自身の持っていた「ヨーロッパ的な美しさ、価値観」というフィルターを通して見たものになっています。

 “東洋の未開人と西洋の文明人” という観念からの「物差し」で見ているため、その記述の中には当時の欧米人特有の傲慢さや誤解が含まれていることも、少なくなかったと言えます。

 しかし、それを差し引いても彼女が書き残した『日本奥地紀行』は「日本人が見落としていた自分たちの生活の根源的な風景を、異邦人の冷徹かつ繊細な視点を通して再発見した」という点では、貴重な記録であると言わざるをえません。


6.日本人の凄まじい好奇心
 また、バードの日本奥地の旅では暴力的な危険(殺傷や強盗)に遭う可能性は極めて少なかった一方で、別の意味で過酷を極めました。
 それが「日本人の凄まじい好奇心の視線」でした。当時の日本奥地の人達は、西洋人の女性など誰も見たことがありません。

 バードが宿に到着すると、村人たちが物見遊山で押し寄せ、障子に指で穴を開けて一斉に中を覗き込むという事が毎晩のように起きました。ほとんどプライバシーがないような状態で、常に「見世物」のようにジロジロ見られるストレスに、バードは何度も精神的・肉体的な限界を迎えています。

 しかし、日本人は彼女を珍しがって群がってはいましたが、危害を加えることはありませんでした。彼らにあったのは悪意ではなく、純粋な好奇心でした。バードもその「無害な群衆」のエネルギーに辟易しつつも、最終的には日本人の根底にある穏やかさを理解していきます。

 考えてみると、日本人の旺盛な好奇心は、異文化や未知のものを受け入れ、新しいものを取り入れていく原動力になったのかもしれません。
 また、この旅をしたイザベラ・バード自身が「好奇心の塊」のような人だったはずです。それが、無謀とも思えた困難な旅を克服し、貴重な記録を残せた主な要因だったでしょう。


7.旅とは世界が多様であることを実感すること
 よく人生は旅人に例えられます。ただ、現在仕事で世界中を飛び回っているような人でも、目的地で仕事場とホテルの往復だけに終始しているなら、それは旅とは呼べないような気がします。

 また、先に書いてきた「イザベラ・バードの旅」のようなスケールの大きい旅だけが、人生に意義をもたらすわけではないはずです。

 遠くへ行かなくても、心の持ちようで平凡な日常が新しい発見に満ちることもあります。よく考えてみれば、自分の住む町の身近な隣町は、外国の人からすれば遠い異国の珍しい土地(町)になるわけです。

 自分が、明治初期にイギリスから遠い異国の地・日本に来たイザベラ・バードになったつもりで、隣町の様子を好奇心を持って観察してみると、そこには、ちょっとした意外な発見があるかもしれません。

 『旅人よ』の歌は、最後次のような一節で閉じられます。
     時は行くとも いのち果てるまで
     君よ夢を心に 若き旅人よ

 どこで暮らしていようとも、常に「旅人」のように好奇心をもって生きていく。そうしたことの積み重ねが、その人の人生を最後まで豊かにしてくれると思えてくるのです。

 イザベラ・バードの旅もそうだったと思いますが、異なる文化や価値観に触れることで、ものの見方が変わり自分自身の物差しの偏りに気づくことがあります。また、見知らぬ土地で戸惑うことで、本来の自分や新たな一面を見いだすかもしれません。

 結局「旅」とは、世界が多様であることを実感すること。そして様々なところで、自分自身を再発見することなのかもしれません。


<<参考音源>>
・トワ・エ・モア、さだまさしが歌う『旅人よ』(歌:リンク)
・加山雄三が歌う『旅人よ』(歌:リンク)


<<参考文献>>
・平凡社ライブラリー『日本奥地紀行』イザベラ・バード 著、高梨 健吉 訳
・講談社学術文庫『イザベラ・バードの旅』宮本常一 著
・ネット記事「英国人のおもしろ旅本を読む」メロウ野郎様 著
 5..項(*3)部分の記述は、上記記事から一部引用してます。

<<参考情報>>
(*1)玄奘三蔵
 中国の伝奇小説『西遊記』には三蔵法師が登場しますが、三蔵法師というのは一般名詞であり、仏教の経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に精通した僧侶(法師)のことを指す尊称です。このため、三蔵法師という人物はたくさんいて、その中の一人が玄奘三蔵です。

 玄奘(げんじょう)は600年代前半に、西域の商人らに混じって天山南路の途中から峠を越えて天山北路へと渡るルートを辿り、ヒンドゥークシュ山脈を越えてインドに到達します。そこで学問を修めた後、西域南道を経て帰国の途につき、出国から16年を経た600年代半ばに、多数のサンスクリット語の経典を中国・長安に持ち帰ったとされています。

(*2)イザベラ・バード
 19世紀の大英帝国の旅行家、探検家、紀行作家です。1831年にイギリス・ヨークシャーで牧師の二人姉妹の長女として生まれ、その後エジンバラに転居。当時としては珍しい女性旅行家として、世界中を旅しました。

 日本では、本稿で紹介している北日本の他、神戸、京都、伊勢、大阪など関西も訪ねており、そこでは新島夫妻(新島襄・新島八重<注>)と面会した記録も残されています。

 日本だけでなく、インドからペルシャ、チベット、朝鮮、中国(清国)も奥深くまで旅しており、文字通りの大旅行家でした。

 <注> 新島八重は、2013年NHK大河ドラマ『八重の桜』主人公のモデルになった人です。このドラマでは “綾瀬はるか” が八重を演じていました。

 

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