千二百年以上前の日本では、今の私たちからすると驚くほど国際色豊かな音楽会が催されていました。また、和歌の世界で使われる枕詞(まくらことば)には、長い歴史の中で育まれてきた興味深い背景がありました。
八洲秀章が作曲した『草山に』という歌をきっかけに、今回は、こうした日本の音楽や言葉の歴史の一端をたどり、思いを巡らせてみたいと思います。
1.公募によって生まれた『草山に』
『草山に』は、青春時代の淡く儚い(はかない)恋心を思い起こさせる、抒情性豊かな歌です。
作曲者は、『あざみの歌』・『さくら貝の歌』・『山のけむり』など、数々の名曲を世に送り出した八洲秀章です。
この歌の歌詞は、著名な作詞家によるものではありません。昭和28年(1953)、雑誌の公募に当選した高橋実という方によるものだそうです。当時は、このような公募によって歌詞を募ることも、決して珍しいことではなかったのでしょう。
『草山に』は、八洲秀章の作品の中ではあまり知られていませんが、タンゴ調のリズムを取り入れた、軽快でありながらどこか哀愁を帯びた素晴らしい楽曲です。
静かに耳を傾けていると、緑の草山を背景にした情景が目に浮かび、そこに青春の日の淡い想いが重なってくるように感じられます。
「草山」は、日本各地に数え切れないほどあります。それは、特別に名の知られた山ではなくても、昔から人々の生活のすぐそばにあった、日本の原風景の一つと言えるかもしれません。
地元の人にとっては親しみ深い山であっても、そこを離れてしまえば、その名さえ知られることのない草山も多いことでしょう。
2.奈良・若草山と東大寺
一方、山としては決して大きくないものの、歴史的・文化的によく知られた「草山」もあります。その一つが、奈良の若草山です。
標高342メートル。なだらかな山全体が芝生に覆われ、毎年1月に行われる「若草山焼き」でも知られています。その山麓には、有名な東大寺や春日大社があります。
東大寺といえば、大仏殿に鎮座する盧舎那仏、いわゆる奈良の大仏を思い浮かべる人が多いでしょう。
今から千二百年以上前、この東大寺で、歴史に残る壮大な法会が行われました。大仏の造立が始まってから7年後の、天平勝宝4年(752)に催された大仏開眼供養会です。
大仏殿の前で行われたこの盛大な開眼会には、国の内外から一万人もの僧が招かれ、完成した大仏の開眼儀式が行われました。
日本だけでなく、唐・朝鮮半島・ベトナム・カンボジアなどから来た楽人や舞人も参加し、音楽や舞がにぎやかに催されています。当時の東大寺は、まさに国家的な一大事業の舞台だったのです。
3.大仏開眼供養会で披露された音楽
この大仏開眼供養会では、いったいどのような音楽が演奏されたのでしょうか。私は、現在の雅楽にかなり近いものだったのではないかと思っていました。
しかし、調べてみると、事情はもう少し複雑だったようです。当時の日本では、すでに大陸や半島などからさまざまな音楽や舞が伝えられていました。記録(*1)によると、当時の日本で行われていたさまざまな系統の楽舞が一堂に披露される、国際色豊かな大音楽会だったようです。
大仏開眼供養会では、日本古来の歌舞だけでなく、唐(中国)の音楽である唐楽、高麗(朝鮮半島)の楽舞、林邑(現在のベトナム中部)に由来する林邑楽、さらに伎楽など、当時の東アジア・南方地域に由来する、さまざまな系統の楽舞がそれぞれの特色を帯びた形で披露されました。
現在の雅楽とまったく同じものが、当時すでに完成していたわけではありません。しかし、後の雅楽につながっていく多彩な外来の音楽や舞が、この時代の日本で演奏されていたことは興味深いことです。
当時使われていた楽器の中には、正倉院宝物として現在まで伝わっているものもあります。五弦琵琶や平琵琶、箏、横笛、笙(しょう)、篳篥(ひちりき)のほか、大陸系の打楽器や異国情緒あふれる特殊な管弦楽器が使われました。
こうして想像してみると、千二百年以上前の奈良の大仏殿前には、日本だけではなく、当時の東アジアや南方地域につながる多種多様な音楽が響き渡っていたことになります。
現代の私たちの感覚からすれば、まさに「アジアの音楽の博覧会」とでも呼びたくなるような、国際色豊かな大音楽会だったのではないでしょうか。
大仏開眼という国家的な仏教行事の場で、これほど多彩な音楽と舞が披露されたことを思うと、当時の奈良の都が持っていた文化的な広がりに驚かされます。
4.「あをによし 奈良の都は」の歌
こうした古代奈良の繁栄ぶりを思い浮かべていると、私は有名な万葉集の歌を連想しました。
【あをによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり】
小野老(おののおゆ)が詠んだ歌です。「奈良の都は、咲き誇る花が美しく輝くように、今まさに栄えている」という意味でしょう。
この歌の冒頭に置かれている「あをによし」は、奈良にかかる枕詞(まくらことば)として知られています。その語源や意味については諸説ありますが、「青丹(あおに)」という語と関係する言葉と考えられています。
“青丹” は古代の顔料や、化粧の黛(まゆずみ)にも用いられたとされる「青緑色の土」のことです。奈良周辺で採れたことから(*2)、万葉集の時代には、「奈良」にかかる枕詞として定着していました。
それにしても、「あをによし」という美しい響きを聞いただけで、その後に「奈良」という言葉が続くことを、古代の人々は知っていたのでしょうか。
ここから私は、和歌における「枕詞」というものに興味をひかれました。
5.和歌における枕詞(まくらことば)
枕詞とは、和歌などで特定の言葉の前に置かれ、後に続く言葉を導く、古くから伝わる定型的な表現です。
例えば、次のようなものがあります。
・あしびきの: 「山」「峰(みね)」などを導く
・ちはやぶる: 「神」「王(きみ)」などを導く
・たらちねの: 「母」などを導く
・ひさかたの: 「光」「天」「月」「雲」などを導く
・ぬばたまの: 「夜」「黒」「月」「闇」などを導く
これらは、現代の文章ではほとんど使われない表現です。しかし、古代の歌を読むと、こうした言葉が実に印象的に使われています。
例えば「ぬばたまの」と聞けば、その後に「夜」「黒」「闇」などが続くことを、和歌に親しんだ人々は知っていました。
いわば枕詞は、後に続く言葉を予告するとともに、その言葉から連想されるイメージを呼び起こす、「呼び水」のような働きもしていたと考えられます。
「あをによし」と聞けば「奈良」が浮かび、「ぬばたまの」と聞けば、漆黒の夜や闇が思い浮かぶ。短い言葉の響きの中に、長い年月の間に培われてきた歴史的・文化的な連想が重なっているのです。
6.枕詞はどのように生まれたのか
では、こうした枕詞は、どのようにして生まれたのでしょうか。実は、枕詞の起源は、これ一つで説明できるという単純なものではありません。
古代の祭祀や呪術的な言葉との関係を指摘する考え方もあれば、古い歌の定型表現が長い時間をかけて固定化されたものと見る考え方もあります。
また、文字による記録が十分に発達していなかった時代には、決まった言葉の組み合わせが、歌を覚え、口から口へ伝えるうえで役立った可能性も考えられます。
歌を暗唱し、次の世代へ伝えていくためには、一定の語句が決まった形で繰り返されることにも、大きな意味があったでしょう。
さらに、枕詞には口承文化における記憶の補助だけではなく、歌の中に古雅な趣や荘厳さ、色彩感を与える働きもありました。
「ぬばたまの」という言葉があれば、そこに黒々とした夜や闇のイメージが浮かびます。
つまり枕詞は、長い年月の間に、言葉そのものの意味だけでなく、音の響きや連想、文化的な記憶までを背負うようになっていったのかもしれません。
7.枕詞から連想した、現代のAI
さて、唐突ですが、ここからは「現代の話」に時代が大きく進みます。枕詞について考えているうちに、私は現代のAIの仕組みを連想しました。
もちろん、古代の人々の記憶方法と、現代のAIの仕組みが同じだという意味ではありません。
ただ、「言葉を単独で捉えるのではなく、周囲の言葉との結び付きの中で捉える」という点から見ると、両者の間には、興味深い類似があるように感じたのです。
例えば「あをによし」と聞けば、多くの日本人は「奈良」を連想します。「ちはやぶる」と聞けば、「神」などの言葉が続くことを思い浮かべるでしょう。
つまり、古代の人々の頭の中には、長い年月をかけて共有されてきた「言葉と言葉の強い結び付き」が蓄積されていたと考えられます。
一方、現代のLLM(大規模言語モデル)も、膨大なテキストデータを学習することによって、言葉がどのような文脈で現れ、どのような言葉と結び付くのかを捉えています。
AIの内部では、膨大な数のパラメータによって、言葉や文脈の関係が複雑に表現されています。そして、周囲の言葉との関係を踏まえながら、次に続く可能性の高い言葉を予測し、文章を生成していきます。
古代の人々は、定型句という「言葉のまとまり」を使って歌を記憶し、伝えていきました。現代のAIは、膨大な文章の中から言葉同士の関係や文脈を学習しています。
両者の仕組みを同じものと考えることはできませんが、「言葉は単独で存在するのではなく、他の言葉との結び付きの中で意味や働きを持つ」という点では、共通点を感じます。
もちろん、AI開発と日本古代の枕詞との間に、直接的なつながりがあるわけではありません。
けれども、千二百年以上前の人々が生み出した言葉の仕組みについて考えていると、それが思いがけず現代の最先端技術を連想させることに、私は感動を覚えました。
8.天平文化から平安時代へ
歌の話から、奈良時代の音楽会へ寄り道し、そこから和歌の枕詞、さらには現代のAIへとたどり、話が広がってしまいました。
かなり遠回りをしてきましたが、ここで再び古代の都の世界へ戻りたいと思います。
【あをによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり】
この歌に詠まれたように、奈良の都が大きく栄えた天平の時代には、仏教を中心として壮大な文化が花開きました。
その一方で、この時代の社会が常に平穏だったわけではありません。大仏造立や国分寺・国分尼寺の建立など、国家規模の大事業が進められる一方、疫病や飢饉、政争なども相次ぎ、社会は大きく揺れ動いていました。
巨大施設の建設が、大きな経済的負担になったことも確かでしょう。やがて奈良時代は終焉を迎え、長岡京への遷都を経て、桓武天皇によって平安京が造営されます。
こうして政治と文化の中心が奈良から新しい都へと移り、平安時代の貴族文化が花開いていくことになります。奈良の都で華やかに繰り広げられた音楽や舞も、長い歴史の流れの中で姿を変えながら、後世へと受け継がれていきました。
9.山麓の村や町を見続けてきた草山
千二百年以上前、大仏開眼という国家的な大法会の舞台となり、さまざまな音楽が響き渡った奈良の地。その近くにある若草山は、その後も長い年月にわたって、古都の移り変わりを静かに見つめ続けてきました。
そして、日本各地にある名もない「草山」にも、きっとそれぞれの長い歴史があるのでしょう。時にはその山に城や砦が築かれ、戦(いくさ)が繰り返された日々があったかもしれません。
やがて時代が移り、山麓の村や町には道路や鉄道が通り、人々の暮らしも大きく変わっていったことでしょう。しかし、草山そのものは、そんな人々の営みを黙って見続けてきています。
そうした身近な「草山」に登り、『草山に』の歌詞から、自分自身の記憶へと想像を広げ、自らの過ぎし青春の日々に思いを馳せてみるのも趣がありそうです。
そこから、さらに視線を遠くへ向けてみれば、その山麓で古(いにしえ)から暮らしてきた人々の営みや、過ぎ去った時代の気配までもが、静かに見えてくるかもしれません。
<<参考情報>>
(*1)大仏開眼供養会の記録
・『続日本紀』の天平勝宝4年(752年)4月9日の条に、大仏開眼の儀式が極めて詳細に描写されています。
・平安時代に編纂された寺誌『東大寺要録』にも記録されています。
<補注> 本稿は、上記原書を直接確認したわけではなく、原書などを基に書かれた下記文献(百寺巡礼 第一巻 奈良)を参考にしています。
(*2)青丹(あおに)の産地
・古代、現在の奈良市と京都府の境にある「奈良坂(奈良山)」の周辺は、良質な青土(青丹)が採れる名産地として広く知られていました。
・『秘府本万葉集抄』などには奈良から青丹を産出したことが明記されており、古代の奈良周辺が緑色の美しい顔料の故郷であったことは確かなようです。
<<参考文献>>
・講談社文庫『百寺巡礼 第一巻 奈良(第1刷)』 五木寛之 著
(第十番「東大寺」P.245、P.246を参考)
・角川選書394『和歌文学の基礎知識』 谷知子 著
・SB新書『生成AIで世界はこう変わる』 今井翔太 著
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