2026-08-04

路面電車(路面電車と貸本屋――歌の中に残された、あの頃の街)

路面電車(歌:リンク)

 「路面電車も 貸本屋さんも いまはないこの街……」。
 昭和50年(1975)、フォークグループ「伝書鳩」が発表した『路面電車』には、こんな印象的な一節が登場します。路面電車と貸本屋。今ではすっかり姿を消した二つの風景ですが、かつてはどちらも、私たちの暮らしのすぐそばにありました。


1.鮮明に記憶に残っている、あの頃の街の風景
 雪どけの季節に路面電車に乗って恋人と梅見に出かけた思い出と、坂の途中にあった貸本屋――。この曲は、そんな遠い日の恋と街の風景を重ね合わせた、どこか哀愁を帯びたフォークソングでした。

 当時の時代風景が巧みに描かれていますが、この歌を聴いていると、単なる恋の思い出だけではなく、「あの頃には確かに存在していたのに、今ではもう見ることのできない街の風景」までが、静かによみがえってきます。

 私自身、高校時代の3年間は路面電車で通学していました。そのため、この歌に登場する「路面電車」という言葉には、とりわけ強い懐かしさがあります。今でも、その頃利用していた路線の、途中停車駅名が意外なほどすらすらと出てきます。

 当時は道路渋滞によって運行時間が不正確になることも多く、正直なところ、路面電車にあまり良い印象を持っていたわけではありません。しかし、車窓から眺めた当時の街の風景だけは、今でも不思議なほど鮮明に記憶に残っています。

 そんな自分自身の記憶も重ねながら、この歌に登場する「路面電車」と「貸本屋さん」について、少し振り返ってみたいと思います。


2.馬車鉄道から路面電車へ
 日本の路面電車の歴史をたどると、その前身の一つとして「馬車鉄道」があります。道路上を自由に走る乗合馬車とは違い、馬車鉄道は敷設されたレールの上を走るため、より安定した軌道上を走ることが可能でした。
 文明開化の時代、こうした鉄道が都市交通として発達し、やがてその動力が「馬」から「電気」へと移り変わっていきます。

 日本で最初の路面電車が登場したのは、明治28年(1895)の京都でした。京都電気鉄道が七条停車場(現在の京都駅付近)と伏見方面を結ぶ路線を開業したのが始まりです。琵琶湖疏水による水力発電を利用したことでも知られています。

 その後、東京や大阪をはじめ全国の都市へ路面電車網が広がり、昭和の時代には、市民の重要な足として活躍するようになりました。しかし、戦後の高度経済成長とともに自動車が急速に普及すると、事情が変わってきます。

 道路を走る自動車が増えるにつれて、路面電車は渋滞の影響を受けやすくなり、運行の定時性も損なわれるようになりました。私が高校時代に感じていた「道路が混んで電車がなかなか進まない」という印象も、まさにこの時代の路面電車が抱えていた問題の一端だったのでしょう。

 路面電車が走る大通りには、車両へ電気を供給する架線が張り巡らされていました。特に交差点付近では、何本もの電線が複雑に交差し、まるで蜘蛛の巣のように見えたものです。今振り返れば、それもまた、当時の街を象徴する懐かしい風景の一つでした。


3.ヨーロッパの街を走るトラム
 一方、ヨーロッパでは、現在も「トラム」と呼ばれる路面電車が多くの都市で活躍しています。NHK-BSで放送されるトラムの走行映像(『ヨーロッパ トラムの旅』)を見ていると、プラハ、ブダペスト、ヘルシンキ、ベルリンなど、歴史ある街並みの中をトラムが悠然と走っている姿に目を奪われます。
 同じ「路面電車」なのに、日本で見るものとは、どこか雰囲気が違っています。

 その映像をじっくり眺めていると、私が見た範囲では日本の都市に比べて信号機が非常に少ないように感じられました。
 また、横断歩道のない場所でも、周囲の安全を確認しながら、歩行者が道路を横断する姿も目につきます。

 もちろん都市によって事情は異なるのでしょうが、こうした光景を見ていると、単なる交通ルールの違いという以前に、「都市の中で人と自動車をどのように共存させるか」という、設計思想そのものに違いがあるのではないか――そんなことを考えさせられます。

 日本では交差点ごとに信号機を設置し、「止める」ことで交通を整理する光景が多く見られます。それに対してヨーロッパの一部の都市では、ロータリー(環状交差点)などを活用し、交通をなるべく「流す」ように工夫しているようにも見えます。

 そして、そのような街の中をトラムが走っています。人の暮らしと公共交通が、街の風景そのものに溶け込んでいる――。 そんな印象を受けるのです。


4.日本でも蘇り始めた路面電車
 ところで、日本でも路面電車を新しい形で見直そうという動きが出てきました。その代表例が、栃木県の「芳賀・宇都宮LRT(ライトライン)」です。

 2023年、宇都宮駅東口から芳賀・高根沢工業団地方面までを結ぶ約14.6キロメートル、19の停留場を持つ新しいLRTが開業しました。
 これは、既存の路線を復活させたものではなく、新たに整備された路線です。日本国内で新たに路面電車の路線が開業するのは、実に75年ぶりのことでした。

 先日、NHK-BSでこのライトラインの走行風景がかなり長時間にわたって放映されていました。私はその映像を見ながら、少し不思議な気持ちになりました。
 かつて「時代遅れ」と思われ、全国の都市から次々と姿を消していった路面電車(*1)が、半世紀以上の時を経て、今度は「LRT」という新しい姿で蘇っているからです。

 映像では、路面電車としてはかなり急な勾配(*2)を車両自身の動力で力強く上り下りしている姿が印象的で、昔の路面電車のイメージが残る私には驚きでした。さらに近年では、架線から電力を受ける方式だけでなく、蓄電池を搭載し、架線のない区間も走行できる車両の開発・実用化も進められているようです。

 「路面電車」は決して過去の乗り物になったわけではなく、時代に合わせて姿を変えながら、もう一度、都市交通の舞台へ戻ろうとしているのかもしれません。


5.貸本屋という、もう一つの「本の文化」
 ところで、この『路面電車』の歌詞には、もう一つ、懐かしい言葉が登場します。それが「貸本屋さん」です。
 歌の主人公は、かつて恋人と待ち合わせをした坂の途中の貸本屋での情景を思い出しています。

 旧来の貸本屋さんは今では全く見かけなくなりましたが、当時私が育った町には数軒ありました。特に中学生時代の夏休み期間中には、漫画本をよく借りに行ったことを思い出します。

 その頃は白戸三平が書いた『忍者武芸帳 影丸伝』(*3)という大作漫画が人気でした。戦国時代を舞台に、武士や農民、忍者、僧侶など、さまざまな人物が入り乱れて繰り広げられる壮大な歴史群像劇でした。相当な巻数があったと思いますが、貸本屋さんから借りて、ほぼ全巻読み切りました。

 このシリーズは、非常に人気があって借りる人が多かったため、目当ての巻は予約待ちになることが常でしたが、ようやくその巻を手にしたときの嬉しさは、今でも鮮明に覚えています。

 子供が使える小遣いでは、到底こうした本を買うことはできなかったので、当時の子供たちにとって貸本屋さんの存在は貴重でした。私が通っていた貸本屋には小説なども置かれていましたが、どちらかといえば漫画本が中心だったように記憶しています。

 今になって思えば、私が歴史に興味を持つようになった原点の一つは、あの貸本屋で借りて 読みふけった『忍者武芸帳 影丸伝』だったのかもしれません。


6.つげ義春の回想
 当時の人気漫画家 ”つげ義春“ によれば、1955年頃から、急激に貸本漫画を主体とする貸本屋が増え始め、東京では1960年頃に急成長を遂げたそうです。
 最盛期には、東京都内に貸本屋は1,200店以上あり、つげが住んでいた下町でも、小さな貸本屋が女店員3~4人を抱えるほどでした。

 当時はまだ下町には喫茶店がなく、しるこ屋や氷屋が若者の溜まり場でしたが、若い女店員を擁する貸本屋もまた若者の溜まり場となっていました。
 ところが、当時の女店員らは漫画本を、「出版物ではなく玩具に等しいもの」くらいとしか見ておらず、作者に対する関心も敬意もなく、つげ自身も全くもてなかったと書いています。

 そのつげ義春さんも、2026年3月に亡くなりました。貸本屋という文化を詳しく知る一人が、この世を去ったことにも、時代の移り変わりを感じます。


7.形を変えて続く「本の共有」
 では、貸本屋がなくなったことで、「本を借りて読む」という文化も消えてしまったのでしょうか。私は、必ずしもそうではないと思います。現在でも、形を変えた「本の共有」は続いています。

 例えば、大阪モノレール門真市駅では、手続きが不要で返却期限もなく、無料で自由に本を借りられる「モノレール文庫」が設置されています。

 何冊でも自由に借りることができ、読み終えた本は、大阪モノレールの各駅に設置されている返却ボックスへ返却しますが、他の駅で返すことも可能になっています。また、家で読まなくなった文庫本などは、各駅の改札窓口で寄贈を受け付けています。

 形は昔の貸本屋とはまったく違いますが、「本を一人で所有するのではなく、皆で回して読む」という考え方には、どこか共通するものを感じます。図書館のような厳格性がなく、緩やかなルールに基づいた、なかなか面白い取り組みのように感じます。

 江戸時代の貸本屋(*4)から、昭和の貸本屋へ。そしてレンタルコミックや漫画喫茶、さらには電子書籍や青空文庫(*5)へ――。
 本を「所有する」のではなく、「共有して読む」という考え方は、その時代に合わせて姿を変えながら、今も生き続けているのではないでしょうか。


8.「いまはないこの街」――姿を変え、生き続けているもの
 『路面電車』の曲が発表されたのは、昭和50年(1975)です。歌の中では、かつて恋人と梅見に出かけた路面電車も、待ち合わせをした坂の途中の貸本屋も、すでに「いまはない」となっています。

 興味深いのは、この歌が単に「昔は良かった」と懐古しているわけではないことです。変わったのは街の風景だけではありません。歌の主人公自身も、かつて愛した人との心の距離が変わってしまったことを静かに振り返っています。

 つまり、街も変わった。人の心も変わった。季節も流れていった。そして、その変化を象徴するものとして「路面電車」と「貸本屋」が置かれているのです。そう考えると、この歌の哀愁が、少し違って聞こえてきます。

 路面電車は、一度は時代の流れの中で姿を消していきました。しかし今、LRTという新しい形で、その価値が改めて見直されています。貸本屋も、かつての形のままではほとんど見られなくなりました。

 しかし、「本を共有する」という考え方は、図書館やレンタル、リユース、電子書籍などへ姿を変えながら、現在まで続いています。そう考えてみると、「消えてしまった」と思っていたものも、実は完全に消えたわけではないのかもしれません。

 姿を変え名前を変え、時代に合わせながら、どこかで生き続けている。そして、もう一つ。歌の中では今も消えていません。


9.歌の中に残された、あの頃の街
 歌を聴けば、その街の風景が心の中によみがえってきます。それは、写真とも記録とも少し違います。写真には写らない「街の空気」や、当時の自分自身の気持ちまで、歌は一緒に連れてきてくれるのです。
 
 この『路面電車』という歌は、失われた街を懐かしむ歌であると同時に、過ぎ去った時間そのものを思い出させてくれる歌なのかもしれません。路面電車も、貸本屋も、そして若き日の恋も――。今はもう、そこにはありません。

 それでも、その街を走った電車の音や、坂の途中にあった小さな貸本屋の佇まいは、歌の中では今も消えてはいません。歌の中には、あの頃の街の光景が封じ込められており、今も静かに息づいているのです。

 『路面電車』の歌を聴くたびに、私たちは失われた街をもう一度訪れることができます。それは、歌だけが持っている、ささやかな「時間旅行」なのかもしれません。

 

<<参考音源>> 『いつか見た青い空』(歌:リンク)
 以前にこのブログでもご紹介していますが、表題の『路面電車』と同じく、フォークグループ「伝書鳩」が歌った曲です。あまり知られていませんが、瑞々しい詞と心なごむ美しいメロディが印象に残る作品です。


<<補足情報>>
(*1)路面電車の廃止
 東京や大阪でも、路面電車が完全に無くなっているわけではなく、東京の都電荒川線や大阪の阪堺電気軌道など、ごく一部の区間では残っています。
 また、札幌・函館・宇都宮・富山・広島・長崎・熊本など、全国20以上の都市で路面電車が現在も運行されています。

(*2)急こう配の坂道
 宇都宮ライトレールのルート(特に鬼怒川を渡る前後や、宇都宮市内の立体交差周辺など)には、路面電車としては異例とも言える「最急勾配 67パーミル(‰)」という激しいアップダウンが存在します。
 これは1000メートルの進度に対して67メートル上る坂で、鉄道としてはかなりの急勾配です。

(*3)忍者武芸帳 影丸伝
 永禄年間から本能寺の変後の天正年間に至る間の、大名・武家や僧侶といった支配者層と農民・地侍たち被支配者層との間に起きる土一揆・一向一揆、大名同士による戦争・調略、暗躍する忍者など、壮大な歴史群像を描いた劇画でした。

 主人公の影丸の他、副主人公の結城重太郎、無風道人、女忍者の螢火、影丸の妹の明美、上泉信綱や柳生宗厳といった剣豪など個性的な多数の人物が入り乱れて登場し、変化にとんだストーリーで、当時の貸本業界では非常な人気を博していました。

(*4)江戸時代の貸本屋
 江戸時代の庶民にとっては、本を買い求めて読むよりも、貸本屋や行商人から見料を払って読むのが一般的でした。
 人情本・洒落本・滑稽本・草双紙をはじめ、井原西鶴や曲亭馬琴といった有名作家の作品、軍書や兵書、浄瑠璃本や実録本まで、そのジャンルは近世文学全般に及んでいました。
 幕末頃には江戸界隈だけでも約800軒の貸本屋があったようです。

(*5)青空文庫
 インターネット上で著作権が消滅した文学作品や、公開が許可された作品を無料で公開している、日本最大の電子図書館です。学問・教養系の随筆や、純文学から児童文学系の小説まで、幅広い分野を取り扱っています。

 ボランティアにより運営されており、広告収入や基金、助成金などで成り立っています。 

0 件のコメント: